町田康「人間小唄」を読んで

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最近、読書がしたくてもなかなか集中力が続かず、一冊読み終えることなく読んでいない本ばかりどんどん溜まっていく。

読みたい気持ちはあるんだけど…ともやもやしているとき、なんとなく本棚にあった町田康先生の「人間小唄」を手にとった。

これはもう何回か読んでいるのだけど、読み始めたらまぁ面白くてイッキに読めてしまった。

 

「…そんなとき、俺はひとりで運転席に座り、父と子と精霊について考えている。誰が子で誰が精霊なのだろうか。未無が父で俺が子で糾田が精霊なのだろうか。なんか違う、と思う。なぜ郵便局で爆弾を買えないのだろうか、とも思う。そしたらみんなもっと自由になれるのに。テロなんてただの心の昆虫だ。私はテロを怖れない。この後、和食処に行こう。」

 

口語文のようなリズムのある文章に、意味のない(存在しない)言葉の数々、展開の読めないカオスさ、などなどを、やっぱ凄ぇな〜頭ん中どうなってんだろ、と思いながら読み進めていくうち、ある文章に引き込まれた。

 

町田先生の小説の特徴として「急に本題に入る」というのがある。さっきまで意味の分からない事を言ってたのに、急に、この世の「真理」のようなものをつらつら語り出す。「あれ?もしかして今、めっさ大事なこと言ってない?」と。読者を混乱させてくる。『人間小唄』でも、その町田康節が炸裂していたのでここに引用する。

 

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 そしてその、消費者の感情・感覚の根本にあるものはなにか、というと、恐ろしいことに、そこにもまた、猿本がいる。或いは、猿本的なるものがある。

「生きて生きて走っていくこの旅 

 それは老いたる桜の樹

 曲がりくねって瘤もあるが

 空に向かってすくと伸びる(以下略)」

 というのは、猿本丸児が政府系機関が主催した大規模なイベントの主題歌のために書いた『大樹を生きる』という曲の歌詞である。空疎極まりない歌詞であるが、多くの人民大衆は、大御所、といわれるベテラン歌手が歌ったこの歌詞をシリアスなものとして受け止め、人生の、なんとなくの、指標・指針、としている。

 そのような人が、なんとなく耳障り、目障りがよい、としているものを猿本は凡庸な感覚で作っている。 

 そのことが何を齎(もたら)すかというと、感受性の堕落のような劣化、である。そして、その堕落するように劣化した感受性に基づいて作られたものに影響された感受性に基づいて作られたものは、堕落した感受性に影響を及ぼし、その劣化した感受性に基づいて作られたものがさらなる感受性の堕落を招き…、という泥沼に全国民が嵌っていく。

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「猿本」というのは作中で人気アイドルのプロデューサーをしている人物なのだが、今は話の筋の方は置いておいて、この文章を読んでまず思い浮かんだのは、「ポカリのCM」問題だ。

 

確か何週か前の、金曜ロードショーの合間に流れたCMが端を発したと記憶しているが、「ポカリスエットのCMが嫌いだ」という声がTwitterに多く投稿され、一時トレンド入りした。私はそれを見て驚いた。

というのも、私はかつて放送されていたカップヌードルのCM、「アオハルかよ。」がキャッチコピーのアニメーションCMが反吐が出るほど嫌いで、普段マスメディアに対して直接的に意見を言うことのない私だが、これに至っては本社に抗議のメールを送ろうかと思ったほどだった。同じような理由でシーブリーズのCMも嫌いだった。その時は物理的に反吐が出た。

カップヌードルのCMの方はワンピースのキャラクターを起用していたので、きっとみんなこのCM好きなんだろうなと思ってみていた。だから余計嫌だった。

私は青春時代の亡霊、いわゆる「青春ゾンビ」(©︎穂村弘)で、ポカリスエットの提示する様なキラキラした「青春」を未だに夢見ている残念な大人であり、こういった類のCMをなんら違和感を持たずに見ていられる人たちはきっと充実した、素敵な学生生活を過ごし、「青春サイコー、マカロンです」って感じなんだろうなー、嫌だなー、っつって思ってたら。件のポカリのCMに寄せられたTwitter民の投稿の数々。

 

あンれ、私だけじゃなかったんかいッッッ!!

 

そうやって拍子抜けしたわけだけども、私がこの類のCMを嫌う一番の理由は、自分がそういう学生生活を送れなかったことへの妬み、ではなく(まぁそれもあるだろうが)、『人間小唄』で先ほど引用した文章で説明されている。

 

作中で「猿本」という人物は、大衆にとって耳障りの良いものを世に出すことで、表面上はそれで良いのかも知らんが、重要なのは、そのことによって国民の無意識に影響を及ぼしてしまっている、というところである。この、「無意識に影響を及ぼして」しまっているのが、ポカリのCM、ということになる。

ポカリのCMには「若さってイイね!!」「努力するって素晴らしく気持ちのイイことだよ」「限りある学生生活、ナニかに打ち込んだ時間は一生の宝物!」みたいな価値観、青春こそ至高のものだ、という価値観を無意識に見ている側に刷り込ませる効果がある。ポカリスエット以外にもそういった広告は多数存在し、サブリミナル的に意識下に、メディアが/上の地位にいる大人が決めた価値観を刷り込ませている。

 

まあまあ、メディアが提示する「青春」に、憧れるのもテメェの勝手だし、後々物事の分別がつくようになった頃「まぁ自分はこんなもんでいいかな」ってちゃんと気付ける聡明な人だったら別に問題はないだろう。しかし、画面に映るキラキラしたものに憧れ、未来に希望を持ってしまう若い人々はどうか。そして、現実が希望通りにならなかったことへの落胆、さらにはキラキラの中に入れなかった自分は駄目なんだ、という必要のない劣等感をも生み出しかねない。てか実際問題そういったことが現実世界で起こっているとは思う。ひきこもる人々は、コマーシャルが提示するキラキラに、入れなかった人達の姿なのではないだろうか。キラキラの世界の住民は実はほんの一部で、現実はわりと地味に過ごしている人のほうが大半かもしれない。そう思う。

この前、Netflixオリジナル『ミッドナイトゴスペル』を見直してたら、「希望は苦しみの原因」というセリフが出てきて、確かになぁと納得した。

 

人生の意味は至る所にある。楽しめる場所、自分の居心地の良い空間はコマーシャルの提示するところ以外にたくさんある。

はたから見たらダサかったり、ツマラナイものでも、磨いていったらかけがえのない生涯の宝物になることだってある。『桐島、部活辞めるってよ。』で神木隆之介くんが演じた高校生のように、他人にどう見られてるかなんて気にせず、自分のやりたいことに打ち込むのも良い。学生時代にやりたいことが見つからなくったって、それもそれで良いんだし。

 

ポカリのCM以外にも、これは最近本当に遭遇するたび気分を害しているのだが、Youtubeでのダイエット商品や脱毛サロンなどの広告も、そういった無意識への害悪だと思う。女性は日々メンテナンスをして美しくなければならないという価値観の押しつけ。意見がマジョリティでもマイノリティでも、所詮はおっきく見た世界の話で、実際自分の身の周りにいる人とそのパーセンテージは一切関係がない。これがなかなか、理解しようと思っても難しい話なんだけど。

 

この間、Twitterで話題になっていた、刃物メーカーの貝印の広告。これは先進的だと思った。"剃毛や脱毛に関する価値観の多様性を表現した"という広告には、「ムダかどうかは、自分で決める。」というキャッチコピーと、腕を上げて肘を持ち、脱毛をしていない脇を見せ凛々しく立っている女性の写真が。(この女性は実在する人物ではなく、精巧に作られたアンドロイドらしい) Youtubeの広告とは正反対の、ちゃんと現実にピントが合っている素敵な広告だ。

 

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もう令和なのだから、古い考えは駆逐され、貝印が提案するような先進的な価値観が広まり、マスから個の時代にシフトしていって欲しい。これからの若い世代のために。キラキラした希望に苦しめられることのないよう。

 

 

P.S 物語の中で作家の糾田が、ラーメン屋を開店する、っていう件があるんだけど私はそこがめちゃくちゃ笑う感じになっている。

最初はスーパーから盗んだ即席麺を屋台で売り出して繁盛するんだけど、こんだ、餃子も共にこれ供することになり、その途端たちまち上手くいかなくなってしまうのだが、その時の糾田の描写が、もう。しかし、父親にこの小説を勧めたのは明らかに間違いでした。