孤独な時代とピノキオピー インターネットで過剰に生み出される「偽の愛」の正体

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最近「ピノキオP(pinocchioP)」というボカロPを知った。

キャッチーな曲調とPVを見て、明るい感じの曲を作る人なんだなぁぐらいの感想しか最初は持たなかったのだが、聴いていくうちに「アレ?」とひっかかる歌詞が見つかる。よくよく聴いてみると、小気味良い韻やリズムの中に潜む皮肉の効いた歌詞、その裏に潜む優しさ。歌詞も驚くほど緻密に練られていて聴いていくうちにその世界観にハマっていった。今回はそんな曲のキャッチーさに反して陰のある、ピノキオピーさんの楽曲の魅力を掘り下げていきたい。

 

“風“

『神っぽいな』/pinocchioP

とぅ とぅる とぅ とぅ とぅる “風”

Gott ist tot (神は死んだ)
「神は死んだ」とは「キリスト教の説く真理や価値といったものが虚構であり、世界には何の価値も目的もないということ」を表した哲学者ニーチェの言葉である。しかしピノキオピー氏も概要欄で書いているが、この曲で歌われる「神」とはネット上ですごいものを表現する際に使われるスラングであると説明されている。神を崇拝するような厳かなものではなく、「天才!」「かっこいい!」みたいな賛辞と同列で、「神!」と表現するコメントはしばしば見受けられる。大層なことを言っているようだが、これは「なんも言ってないのと一緒」である。

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ロングセラーになった菅野仁の『友だち幻想』の中で、“コミュニケーション阻害語”という言葉があった。
この阻害語とは、「チョー」や「カワイイ」や「ヤバイ」などといった、主に若者が頻繁に使う言葉のことで、今で言うとそれこそ「神」とか「わかりみ」とかがそれに当たるだろうか。相手とコミュニケーションを取る際にこういった言葉を連発してしまうことで「相手ときちんと向き合うことから自分を遠ざけ」、さらに「他者が帯びる異質性に最初から目を背けてしまう」(p135)という危険性があるという。

なに言ってんの? それ うざい なに言ってんの? それ
意味がよく分かんないし 眠っちゃうよ マジ
飽きっぽいんだ オーケー みんな 飽きっぽいんだ オーケー
踊れるやつちょうだい ちょうだい ちょうだい ビーム

特にこの歌詞の部分なんかはわかりやすい。
「うざい」「マジ」という言葉を使って異質なものから目を背けている。(動画1:50-このパートでMVのシスターが目を閉じているのは、相手の話を聞く耳を持っていないことが表現されているように思える)人との深い関わりや考え方の違いなど、面倒くさいものとは距離を置き、何も考えず「っぽい」ものを消費しラクしていたいという若者たちの主張…なのだろうか。

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「場の空気」というのがある。私たちはなんとなくこの「場の空気」に合わせて発言などをしてしまいがちだ。ネットのコメント欄なんかもそう。いいね!をたくさん集めやすいフォーマットというものが少なからずあり、それに当て嵌めてコメントをしていたり、それに「共感」をした人々が賛同していたり。あらかじめ用意された「単語集」で喋るのは楽だし、一見、親しみが生まれやすいツールとも取れる。しかし、『友だち幻想』ではこうも言っている。

“…「チョー」や「カワイイ」を連発することによって物事に対する繊細で微妙な感受能力がいつの間にか奪われてしまう危険性を感じるからです。(略) そうした対象がそれぞれに持っている特徴の間の微妙な差異を感覚できない鈍さを、知らず知らずのうちに帯びてしまうことにつながると思うのです。”(P141)

 出典:菅野仁(2008)『友だち幻想 人と人の〈つながり〉を考える』ちくまプリマー新書

ラクにつながれる(気分になれる)言葉たちを頻繁に使うことで、物事を表面的なところだけしか見れなくなってしまい、他人の感情を推し測ったり、ものの良い悪いを選別するといった感受性がどんどん鈍ってしまう。

愛のネタバレ 「別れ」っぽいな
人生のネタバレ 「死ぬ」っぽいな
全て理解して患った
無邪気に踊っていたかった 人生

人生を生きていく上での様々な過程を無視し、「結末」のみ理解して(したつもりになって)満足してしまう。これには最近話題になった「ファスト〇〇」(映画など作品の重要な点だけ切りとって編集し、簡潔にまとめられた動画のこと)とも重なる。
「全てを理解」した気になって、複雑で面倒なものには耳を塞ぎ、ただ「気持ちいいっぽい」曲や言葉に乗って生きる現代人への皮肉がたっぷりである。

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MVのイラストも、まさに「っぽい」。拳銃に見立てた手をこめかみに当てた「あざとい」ポーズ、自傷の跡。ゴツいリングと舌ピアス、片手にタバコ。現代風に言うと「治安が悪い」とゆー奴ですね。この社会に歯向かってる感じ、かっけえぇぇ。憧れちゃう!

あと、ちょっと筋からは逸れるが、「批判に見せかけ自戒の祈り」という歌詞にはドキッとした。特大ブーメランというやつですね。
先日も知人と某メンタリストのDaiGoさんの話をしていた時、最初は炎上した発言に対して批判的だったが、だんだん(アレ、これ自分のことでは…?)と思えてきて「あ〜…彼の気持ち、わかるわ。私にも同じような側面があるかもしれない。」という結論に達して考え込んでしまったものだ。

 

 

ぶっちゃけ大好き

『ラヴィット』/pinocchioP

けしからんっすか 背に腹っすか 欲望がダンスしてる

アレも危険だしコレも危険 その分アガるシステム

私もすっかりスマホ依存症になってしまって、液晶に映し出される様々な情報に、気持ちを持っていかれてしまうこともしばしばだ。この曲は、キャッチーで可愛いMVとは裏腹に、歌詞の内容は非常にシビアだ。のっけからこの調子である。『欲望がダンスしてる』『アガるシステム』など、TikTokYouTube、そして各種SNSなどといったインターネットの「流行り」や「広告」に振りまわされる人々を連想させる。 

ここで「ネット時代における“つながり”」というテーマを扱うにあたって、そもそもコミュニケーションとはなんなのかを考えたい。

“コミュニケーション【communication】
 … 社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。〔補説〕「コミュニケーション」は、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。”  ー参考: goo国語辞書

こうして意味を見てみると、コミュニケーションとはそもそも「人間が互いに、意思や感情を伝達し合う」ことである。街ゆく人々が皆スマホを持っている現代社会は、このコミュニケーションをスマホ、つまりインターネット上で行うことが(特に若者は)多いだろう。友人とメッセージを送り合うラインの他にもネット掲示板や、さらにインスタグラムをはじめとしたSNSでも、誰かが発信する情報や考えが常に視界に入るようになっている。ここで注目したいのが、ネット上で行われるコミュニケーションは「常に成立している」とは言いづらいことだ。「いいね」のやりとり、TLにいる人々の動向を逐一チェック、なんてことをしていても、文字制限がある言葉だけでは、もしくは加工された“エモい”画像だけでは、本当の相手を知り得ない。相手の表情を読んだり、相手との適切な距離感を時間をかけて理解したり、そういった「コミュニケーション」に必要なものがSNS上ではすっぽりと抜け落ちている。

一方通行の色恋 か弱いウサギになってしまった

一方通行の色恋』。つまり、本来の「人と人との心の通い合い」という意味の相互コミュニケーションではなく、常に「一方通行」なのだ。人との関わりの中で傷つくのを恐れる反面「誰かと一緒にいたい」と願い、少女は『か弱いウサギ』になってしまう。

ぶっちゃけ 大好き

顔がいいから大好き

有名だから大好き

みんな好きだから大好き

君の性格大好き

よく知らないけど大好き

どうぞ もっと痛くしていいよ

サビでは『大好き』と繰り返し歌うが、その言葉の先に相手はおらず、ただ壁打ちをしているばかりである。彼女の姿は痛々しく、さらに「どうぞ、もっと痛くしていいよ」と、まるで自傷のように同じことを繰り返す。

I love it

味のない キャロット美味しく頬張り

I love it

自分のいない 月を見上げ幸せそうなラヴィット

ここで、再び『友だち幻想』を引用するが、著者は現代における新たな共同性を「ネオ共同性」と名付け、その根拠にあるのは不安の相互性だと説いた。

“多くの情報や多様な社会的価値感の前で、お互い自分自身の思考、価値観を立てることはできず、不安が増大している。その結果、とにかく『群れる』ことでなんとかそうした不安から逃れよう、といった無意識的な行動が新たな同調圧力を生んでいるのではないかと考えられるのです。”(p56)

 出典:菅野仁(2008)『友だち幻想 人と人の〈つながり〉を考える』ちくまプリマー新書

「なんか違う」とは感じながらも、それでも「みんなといっしょ」の方が居心地が良いと感じてしまう。自分の本当の気持ちが隠され、多数派の意見に流されてしまう。美味しくもないキャロットをさも美味しいものであるかのように頬張る様は、側からみたら滑稽以外の何者でもない。でも独り(ぼっち)になるよりはマシと、か弱いウサギは幸せそうに微笑むのだ。しかし。

あなたを信じていいかな?

泣き腫らしたい目で 偽のに病む その度に

甲斐甲斐しく「生まれてきてよかった。」と

胸を張って言えないけど この思いを伝えるために

彼女は心の中で自分自身に問う。「一生か弱いウサギでいいの?」と。本当は、インターネットに溢れる偽の愛に気付いていて、誰かを信じること、歌詞にある「〇〇だから」のような表面的なものではなく、自分の本当の「好き」の気持ちを伝えたい。MVのラストのシーンで女の子がずっとつけていた「つけ耳」を外して微笑んでいることから、それまで大事にしていたもの(『価値の無い宝物』)と決別し、本当の「」、本当の「人とのつながり」を求めて生きていくのだろうということが暗示されている。

 

 

より空疎になっていく“つながり”(まとめ)

たくさんの人に囲まれていても、頻繁にスマホに通知が来ていても、「独り」であると感じてしまう現代人。ピノキオピー氏の楽曲を通して、そんな現代の“つながり”について考えてみた。コミュニケーションツールは近年発展し続けているが、一方で人々の間にはどんどん心の距離ができてしまっている様に思えてならない。「コミュニケーション阻害語」や「不安のメカニズム」を知ることでネットとの付き合い方を今一度見直す必要があるのかもしれない。それにしてもピノキオピー氏の歌詞は凄い。ボキャブラリーの豊富さと、世界を捉える眼差しの鋭さ。伝えようとしてくれているメッセージがぐっ、と入ってくる。言葉と、そして現実と真剣に向き合っているからこそ書ける詞なんだろう。『ラヴィット』は表面的にはキャッチーで可愛らしい曲だから、かなり衝撃だった。

ピノキオピー氏についての記事を書くにあたって、「孤独な時代とピノキオピー」と「息苦しい時代とピノキオピー」の二部構成(?)にした。前編/後編的な分け方ではないので続きというわけじゃないんだけど、この記事を読んでくださった方は、少しダークな内容になっている「息苦しい時代とピノキオピー」〈https://hibino-note.hatenablog.com/entry/2021/09/30/154049〉もあわせて読んでくだされば幸いです。