息苦しい時代とピノキオピー それでも世界と戦い続ける
10代の頃の私は、それはもう生き辛かった。
何度も過去を後悔しては、他の選択をした世界線を考えて死にたくなったり、現状から逃げたかったのだが逃げ方がわからず、ズルズル留まり続けて危険な状態にまで自分を追い込んだりしていた。
今は20代になって数年経つので考え方もその頃に比べたら柔軟になったのだが(正直、まだ生きづらさは感じる)。本当に10代の頃はキツかった。当時いろんな音楽や本に救われたが、ピノキオピー氏の楽曲にも触れていたら、と思う。この記事で扱う曲はわりと最近の曲が多いので10代の頃に聴くことはどのみち叶わなかったのだが…。今苦しい時期を過ごしている私より年下の子たちに薦めたいと思うアーティストの1人だ。
さて、一つ前の記事では「孤独な時代とピノキオピー」〈https://hibino-note.hatenablog.com/entry/2021/09/30/151810〉と題して、スマートフォンが普及しSNSが主なコミュニケーションツールとなった現代社会の“つながり”の脆さ、そんな情報社会の中で増大する不安について書いた。(なんでこんなに堅苦しい文章なんでしょうね。修行が必要です) 今回の「息苦しい時代とピノキオピー」では、息苦しさを感じている人々への「処方箋」となるような楽曲をまとめてみた。前回あげた楽曲は現代人を揶揄する様な歌詞が多かったが、今回は、日々生きていてうまくいかなかったり悩んだり、息の詰まる様な思いを抱いている人々に優しく寄り添う様なものになっている。
ゆっくり変わっていく
『すろぉもぉしょん』/pinocchioP
10代 ドヤ顔で悟った人
20代 恥に気づいた人
30代 身の丈知った人
そのどれもが全部同じ人
近頃のコロナ禍で、精神を病んでしまって精神科に受診する人が増えていると聞く。それぞれ事情は違えど、パンデミックの影響を受けて人生の中で今が1番しんどい時期という人も少なくないだろう。コロナが流行しはじめて多くの人を襲う不安は「この状況がいつまで続くかわからない」ことではないか。「早く元の世界に戻らないかな」と願っても、コロナはいつまでも終息せず、元の暮らしに戻ることは無いだろう。今まで経験したことのない危機が、静かに横たわっている。もう元に戻れない。この先も…。
もうずっと、この苦しみの中で生きて行かなきゃならないのかも…。
これはうつ状態になると突き当たる「絶望」という症状だ。生きていても、希望が見い出せない。状況が良くなる見込みがない。でも、果たしてそうなのか。人生は、生きていても良い事がなく、絶望から逃れるためには「現実逃避」、もしくは「死」…いや、少し考え方を変えてみてほしい。
過ぎた時間と この瞬間と
残り時間が 深夜混ざって
思春期・青年期の精神病理学を専門とする斎藤環は著書『承認をめぐる病』で「若者の“変わらなさ”」について論じている。
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“若い世代、とりわけ20代以下の患者を診察していて、しばしば悩まされる問題がある。それは自分の「変わらなさ」に対する確信である。”(p66)
“見てきた通り、現代の若者にとって重要な価値を帯びているのは『コミュニケーション』と『承認』である。それは多くの若者の幸福の要因であるとともに、それが得られない若者にとっては決定的な不幸すら刻印する。たかがコミュニケーションの問題が幸・不幸に直結してしまうのは、『現状が変わらない』という確信ゆえである。それゆえ若者の『うつ』もまた、『コミュニケーション』や『承認』をめぐって発生しやすくなる。職場で承認されなかった若者は、あっさり退職してひきこもり、うつ状態になってしまう。ここでも『たまたま生じた不適応』をきっかけに『自分はもともとそういう人間であり、それはこれからも変わらない』という思い込みが生じる。”(p77)
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「変わらないことへの確信」。確かに、困難な現状を前にして「いずれ状況は変わるから大丈夫」とか「時間が解決してくれる」といった考え方はなかなか直ぐにはできない。ましてやコロナなんて未知のウイルスだ。この先どうなるかなんて誰にも分からない。コロナに関係なくとも、それぞれの人がそれぞれの事情で苦しみの只中にいて、「もうこの先良くならないんじゃないか」と、どうしても悲観的になってしまうだろう。私も10代の頃、過去の失敗をいつまでもいつまでも悔やみ、そのことでこの先もずっと苦しむんだと勝手に決めつけ、過去のことを思い何度死にたくなったことか。(今考えるとどうでもいいことばかりなんだけど)
しかし、そういう人生の「しんどい時期」はいつか終わりが来る。これは不治の病とか世界滅亡とか逃れられない不幸の場合は除いての話。うつの状態が続いていても、それが絶対治らない、苦しい状況がずーっと続く、等というのは、上に引用したように強い「思い込み」である場合が多く、事実、どこかで救いの手が差し伸べられている。きっかけがいたるところに転がっている。そういう今の状況を「変えてくれる」装置が、人生には用意されている。そう、強く信じて、自分なりに力を尽くしていれば、差し伸べられる手に気が付ければ、おのずと良い方向に向かっていくと、私は考える。
感傷 感傷に身をやつしても
へっくしょん へっくしょん
くしゃみは馬鹿っぽいな
ぐーすぴー ぐーすぴー
鼻づまりの笛を
合図に 夜が明けてく
過去を振り返った時に「あの頃は大変だったな」と笑える日がいつか来る。トライアンドエラーを繰り返し、経験を重ねるうち、(ここでいう"経験"とは仕事でなにか成し遂げた等といった大それたものでなくてもいい。日常の、ほんの些細なことでも積み重ねていけば経験となり得る)トラブルや困難にぶち当たった時の解決法が自然とわかるようになってくる。これは、本当にゆっくり、時間をかけて、理解していくことだ。歳を重ねると考え方も変わってくる。性格も、今とはだいぶ違うかもしれない。こう言っている私なんかまだ、人生の4分の1通過したくらいのペーペーなんであんま偉そうなことは言えないが(汗)。
すろぉもぉしょん
朝になって熱引いて
こんでぃしょん
快晴の青天井で
反省したり調子こいたり のんびりくたばっていく
すろぉもぉしょん
アイドルだって歳くって
賑わせて骨になって
生まれたときと最後のときが ゆっくりつながる 不思議
「ゆっくり変わっていく」。即効性のある薬のようにすぐに良い方向に変化するのは難しいけど、日々悩んだり苦しんだり、人との関わりの中で喜びを感じたり、はたまた動けなくなって休んだり(ちなみに私は今ココ)、なんだかんだ様々な過程を経て、いつか笑えるその日まで、ただただ生きる。そのようにして人間は成長していくんだと、最近思う。
恥の多い生涯なんて 珍しいもんじゃないし
大丈夫だよ
孤独に世界と戦っている
『アルティメット・センパイ』/pinocchioP
曲名にもなっていて曲中でも繰り返し歌われる「アルティメットセンパイ」。彼/彼女は「完璧で立派な人物」というよりどちらかというと「不器用で変わった人物」といった印象を受ける。
アルティメットセンパイ アルティメットセンパイ
鳴かず飛ばずの毎日をもがいているセンパイ
アルティメットセンパイ 不安定な将来
狂っているのは一体 どっちだい?
また味方を蹴っちゃった 敵を庇っちゃった
自分を撃っちゃった 今日も大失敗
彼女は失敗を繰り返しているようだ。周りからも「一体何を考えてる?」と不可解な存在らしい。味方を蹴ってしまったり敵を庇ってしまったり意味不明な行動を繰り返している。でもこれ、すごいわかる。真逆の行動をとってしまうこと。その場の感情に任せてあらぬことを言ってしまい、のちに「なんであんなこと言ったんだろう…」と後悔する。わかる。わかりすぎる。『狂っているのは一体どっちだい?』という歌詞に、ピノキオピー氏の優しさを感じる。ピノキオピー氏はどんな時も一生懸命に生きている人々の味方だ。
アルティメットセンパイ アルティメットセンパイ
ちゃんとした人に怯えて貝になったセンパイ
アルティメットセンパイ 勇気出して言いたい
一方通行な恋をしている
あれ?伝わらなかった 口数減っちゃった
また間違えちゃった
案の定玉砕
アルティメットセンパイ でも泣かないよ絶対
不器用に夢をなぞってる アル・ティ・メット・セン・パイ
「正しさ」を前に立ち尽くしてしまう。不器用にしか生きられない自分に悲しくなり黙ってしまう。しかし彼女は転び続けてもなお、立ち上がる。何があっても前を向くほんとうの「強さ」を、彼女は持っている。
あぁ今日も不安だな 明日も不安だな
どうすりゃ正解か 今はわかんないや
アルティメットセンパイ でもやってやんよ絶対
ゆっくり地球は回っている
アル・ティ・メット・センパイ
彼女は今日もがむしゃらに生きている。日々の不安と、「今はわかんないや」という能天気さも持ちながら。不器用でもいい。遠回りでもいい。焦らず、でも確実に、自分の道を進むセンパイを私は尊敬する。闘いで受けた傷も、それが勲章となって、彼女をより強く、魅力的に見せていると思う。
ゆっくり地球は回っている。だから大丈夫。
幸せ自慢はダメ?不幸嘆いてもダメ?
『ノンブレス・オブリージュ』/pinocchioP
この曲は「百聞は一見にしかず」というか、まず聴いてみてほしい。
生きたいが死ねと言われ
死にたいが生きろと言われ
幸せ自慢はダメ? 不幸嘆いてもダメ?
図々しい言葉を避け 明るい未来のため
「ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。19世紀のフランスで生まれた言葉で、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会に浸透する基本的な道徳観だという。つまり曲名の「ノンブレス・オブリージュ」は「息を止める」ことの強制、みたいな意味だろうか。
私はメディアが好きな方なので、最近のエンタメを見ていると「何も言えない時代になってきているな」と感じる。「多様性」を謳って様々な生き方が受け入れられる社会になってきたのかと思えば、少しでも時代にズレたことを言ってしまうと集中攻撃されてしまう。全ての人が平等に生きられる「明るい未来」のために、表現は規制され、どんどん言いたいことも言えなくなってしまう。『息が詰まる』ー
さんはい「この世には息も出来ない人がたくさんいるんですよ」
ここでも強い「同調圧力」を感じる。自分に言い聞かせる「まだ自分は恵まれている方だ」、または人から言われる「貴方は彼らよりマシなんだから」。しかし思うのだが、比較はなんの役にも立たない。むしろ状況をさらに悪化させる。
例えば、子供があることで悩んでいたとする。その子供の悩みは大人から見れば大したことない類のことである。「そんなこと大したことないよ。大丈夫。」しかしその子供にとっては大問題なのだ。なぜなら子供は人生経験が乏しく、自分の今まで生きてきた経験で比較・検討することしか出来ないからだ。同じことがこの社会を覆う「同調圧力」にも言える。苦痛は他人と比べることは出来ない。苦しんでいる人に自分の価値観を当てはめて大丈夫だと説得しても、苦しんでいる相手は「自分」ではなく「他人」なのだ。他人の気持ちはわからない。同時にわからせることも出来ない。なぜなら誰1人として同じ人生を歩んできていないのだから。比較するのはこの場合悪手である。(悪手…その場面で打つべきではないまずい手のこと。) 「正論」や「あらかじめ定められた価値基準」を押し付けてくる社会より、「それぞれには事情がある」ことを理解し容認する様な社会であれば、多くの人が日々感じている「息苦しさ」は多少マシになるのではないか。全ての人に手を差し伸べるべきだという訳ではない。1人の人間がそこに「居て」良いと存在を容認してくれる様な社会。過干渉でもなく突き放すでもなく。
僕らはコンプレックス コンプレックス
コンプレックスを武器に争う
それぞれの都合と自由のため
息を止めることを強制する
『それぞれの都合と自由のため』。近年「多様性」への理解・関心は広がりを見せている。しかしそれを「どう受け入れていくか」に関してまだ課題が残る。異質なものを排除する働きを強めるのではなく、差異をあるものとして受け入れ、共生することが理想だ。これは難しい。私もまだ、この問題についてはどう考えていけば良いのか、考えてもわからなくなってしまう。この曲に関しては結論は出ないが、美しい曲とアニメーションは、日々の生活で感じる息苦しさを不思議と和らげてくれる。
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先日、『猫を抱いて象と泳ぐ』という小川洋子さんの小説を読んだのだけれど、俳優の山崎努さんが解説を書いていて、その解説に書いてあった一節が上に書いてきた内容に関連するかなとちょっと思ったので、引用させていただく。
“自分から望んだわけでもないのに、ふと気がついたらそうなっていた。でも誰もじたばたしなかった。そうか、自分に与えられた場所はここか、と無言で納得して、そこに身を収めたんだ、と少年は賢く考える。「仕方ない事情」は受け入れたほうがいい。それも早めに。その後にお楽しみが待っているのだから、と仕方なくなってから七十数年過ごした僕はあらためて思う。
(略)
自由だ解放だと今日日世間は煽るけれど、そんな風潮に乗ってはいけない。本当の自由は仕方ない事情の内にあるのだから。”(p373)
(小川洋子(2011)『猫を抱いて象と泳ぐ』文春文庫 より一部抜粋)
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数年後にゆっくり理解して(まとめ)
『アンテナ』/pinocchioP
聞いてないよ 聞いてないよ 学校では教えてくれないよ
知らないよ 知らないよ 失敗繰り返して覚えていくよ
完璧な人生なんて存在しない。日々失敗を繰り返し、地道に経験を積み重ねていくしかない。液晶画面には若くして成功した者や才能ある者が映し出される。比べて自分は「何者でもない」ことに落ち込む。私もそうだ。同じくらいの年齢の人が素晴らしい作品を作り賞賛されているのを見ると冗談でなく真面目に死にたくなる。そんな時ピノキオピー氏の曲は優しく胸に沁みる。「そのままで良い」と。“何者”でもなくても、周りになんと言われようと、自分の道を進んでいる貴方は素敵だ、と。
そうアンテナを張って色んなものを見て聞いて
触ってつねって確かめて
そして各方面を好きになって 嫌になって
そうアンテナを張ってミスって
説教くさい言葉にちょっとひいて
「うるさいくたばれ」悪態ついて 数年後にゆっくり理解して
*
そうアンテナを張って遊んで学んでわずかな喜び見つけて
つらかったこともいつか笑って 数年後に思い出して
今は辛いかもしれない。でも、苦しい時期がこの先一生続くわけではない。そう信じていれば、たとえ今動けなくても、救いがないとしても、きっかけが必ずどこかに転がっているはず。機が熟するまでのんびり待とう。
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「じつはね、マーちゃん、私自身が自分のことを『落ちこぼれ』と認めてるんだわ。ずっと若い時から、この前の結婚の間も、重藤さんと一緒の今も…『落ちこぼれ』というのは、たまたまその言葉が問題にされているから使うので、これまで私の頭にこういう言葉があったのじゃないけど。私の感じ方でいえばね、自分はなんでもない人として生まれてきてそのように生きているし、あといくらかそのように生きて、やがてはなんでもない人として死んでゆくということなのよ。
(略)
私があくまで普通の頭で考えているのはね、自分をどんな些細なことにも特権化しないで、なんでもない人として生きているかぎり、余裕があるということだわ。その上で自分なりに力を尽くせばいいわけね。」(大江健三郎(1995)『静かな生活』講談社文芸文庫 より一部抜粋)