われらの狂気を生き延びる道を教えよ

 

昨日、今にも雨が降りそうな曇天の中、ふらりと散歩に出かけた。

ここでふらり、と書いたが実際はそんな軽い感じではなく、己の中の獣のような黒い何者かが暴れだし(こう書くと中二病みたいでかっこいいな)、その獣を沈めるべく、とりあえず外に出た、という感じ。

 

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電車に乗り、たどり着いたのは神社だった。しかし別に、神社に来るために電車に乗ってきたのではなく、お金をおろすため入った銀行の近くに神社があり、なんとなくお参りしておきたい気持ちになったので向かっただけのこと。

意外だったのが、平日なのに結構人がいて、なんだろうと思ったら着物を着てる女の子とその親みたいな感じで家族づれがちらほらいて、あぁ、七五三シーズンなのかなぁとぼんやりした頭で理解して参道を歩いた。

 

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少し前に雨が降ったのか、木々や石像がしっとりと濡れていて、神社ぜんたいが独特の静寂に包まれており、雨のまじった静謐な空気を吸って歩くうち、獣の暴走がだんだんと治まっていくのを感じた。

お賽銭に入れる金額は正式には決まっておらず、その時の自分の金銭事情を加味して、このくらいなら出せるかなと思う金額を入れれば良いっていうのを先日テレビかなんかで聞いたので、5円玉を賽銭箱に放って、二礼二拍手ののち、目を閉じ、心の中でゆっくりと、祈りの文言を唱えた。

 

「われらの狂気を 生き延びる道を教えよ。」

 

しばらく手を合わせながら祈ったのち、再び目を開け深々一礼をしてその場を後にした。

 

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「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」とは、今読んでいる大江健三郎の小説のタイトルだ。その中の話の一つに「父よ、あなたはどこへいくのか?」という中編小説があって、それを読んだのだが、ここ数年の自分、そして親との関係とが、非常にリンクした内容になっていて、ドトールで読みながら涙が出そうになってしまった。かなり複雑な話で、私もちゃんと理解できているとは言えないので詳しいあらすじとかは書けないのだけれども、作中の著書の言葉ー

 

いま、男はかれをとらえようとまぢかに迫った狂気をわけもつべき息子も、父親をも持たない。

かれはひとりで狂気にたちむかう自由をあたえられただけだ。

 

この言葉には、今まさに、己の中の獣が暴れだし、狂気に囚われそうでぎりぎり耐えている、そんな自分を慰めるものがあった。

私は自由を与えられている。後はどう考え、動くか。

しかし哀れにも気弱で心細い私は、静かに神に祈った。「この狂気に耐え、どうか生き延びることができますように。」と。

 

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