「頑張らなくて良い」と言うが、人生で頑張ったことが無い
このごろ不調で、YouTubeに上がってる怖い話詰め合わせみたいなのを聴いて過ごしている。あんなに好きだったラジオも、話が入ってこず最後まで聴けないことが多くなった。要するに集中力が欠落していて、自分が何をしたいかもよく分からず、読んでいない本が増えていく一方…このブログ自体も、だいぶ文法がおかしく読みづらいところがあると思う。あらかじめご了承ください。
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『ミッドナイト・ゴスペル』というNetflix限定アニメ作品がある。"見る幻覚剤"とも呼ばれたこのアニメは一時期サブカルチャー好きの間で話題になった(らしい)。私はこのアニメをあるYouTuberの人が紹介していたのをきっかけに興味を持ち、このアニメのために一ヶ月だけネトフリに加入した。
[作品のあらすじ]
本作は、『アドベンチャー・タイム』で知られるペンデルトン・ウォードによる1話約30分、全8話からなるアニメーションシリーズだ。ウォードがダンカン・トラッセルというコメディアンが配信しているインタビュー形式のポッドキャスト『Duncan Trussell Family Hour』に触発され、そのインタビューをアニメーションにすることを思いつき実現した。基本的に1話完結で、トラッセル自身が主人公のクランシーを演じている。
主人公のクランシーはスペースキャスター(ポッドキャスターの宇宙版)で、様々な平行世界へシミュレーターを通して訪れ、そこで出会った人々にインタビューするという筋書きだ。そのインタビュー内容は、過去に配信されたトラッセルのポッドキャストから取られている。
その平行世界は様々な理由で滅亡の危機に瀕しているという設定だ。ゾンビが大量発生していたり、地表が水に沈んでいたりと様々なシチュエーションを幻惑的なアニメーションで描き、そこでクランシーがとんでもない目に遭いながらユーモア混じりにインタビューを続けてゆく。インタビューのテーマはゲストに応じて様々で、薬物依存症のスペシャリストや作家、瞑想のプロや冤罪で死刑判決を受けた人物から、トラッセル本人の母まで多彩な顔ぶれだ。
ペンデルトン・ウォードは、ダンカン・トラッセルのポッドキャストを高く評価しており、2013年ごろから聴いていたという。ウォード曰くとラッセルは「瞑想について2時間通して面白おかしく語れる」センスを持っているそうで、そんな彼のトークにアニメーションをつけたら面白くなるのではないかと思ったそうだ。
出典:「『ミッドナイト・ゴスペル』なぜ話題に?新感覚アニメーションが可能にした、壮大なテーマの表現」杉本穂高(https://realsound.jp/movie/2020/05/post-557468.html)
作品に関しては調べればもっと文才のある人がいくらでも解説を書いているので、ここでは自分のための備忘録というか、気持ちの整理的な意味で印象的だった言葉など引用し自分なりの解釈を書いていこうと思う。
※注意! この作品を見たのが去年で、手帳にあるメモを参考に(足りないところはネットで調べて)しているので、実際のストーリーと多少異なる部分があるかと思います。そこはご了承願います。
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ゲスト:ダミアン・エコールズ
「みんな人生 文句を言ってばっかりだ
そこに"気"を費やしてる
本来は後退より前進に力を注ぐべきだろ?
ウソを吐けとは言わない、
具合が悪い時に元気だと言う必要はないが、
"よくなってる"といえば良い」
ゲスト:トゥルーディ・グッドマン
「自分にとって大切なものにエネルギーを集中させるの
つまり孤独な時には、仲間を探すのが大事ね」
メモには、セリフ全文を引用できていなかったのだけど、「自分の直感に耳を澄ます」「直感に反すると失敗する」などがあった。
「仲間を探すのが大事」、これは今から友達を探しましょうというハードなものではなく、もっと広く「人と関わりを持つ」ことの大事さを言っていると私なりに解釈した。
私はここ1、2年孤独を感じながら過ごした。詳しくは書けないが、独りでいる時間が圧倒的に長く、人と話すこともほとんど無い生活を過ごしていたら動けなくなった。「このままではいけない」と思い、無理して身体を起こし、這いつくばるように人のいる場所に向かった。
不思議なもので、直接関わらなくとも人が喋っている声というのは落ち着くものだ。部屋の中でほとんど「死人」と変わらぬ生活をしていたが、人のいる場所に顔を出し、一応の「人間らしさ」のようなものは取り戻せた気がした。
私は現在、相談に乗ってもらったり話を聞いてもらったりしている人がいる(家族や友人ではなく)。 2ちゃんのスレッドで、「自分以外のことを考える時間を増やしつつ自分を認識してくれる誰かを作れ、親以外で」という書き込みがあって、実感として物凄い理解できた。親に相談するのももちろんいいが、例えば心を病んでいるのだとすればその専門の人に話を聞いてもらうだとか、悩みがあったら専門の窓口に相談したり、インターネットを利用するのも私はありだと思う。実際、去年一年間はインターネットに助けられた。自分はとにかく好きになったものを語りたい厄介なタイプなので、この誰にも吐き出せないものをブログに書いて昇華していた。ブログに反応が来ると嬉しいし、孤独も和らいだように思う。(この場合反応が来ることも効能だが、「ブログを書き抜く」というかなり骨の折れる作業を成し遂げることが出来た、という達成感が大きな効能である)
孤独と向き合ったり、人と関わりを持つ(自ら)ことはハードルが高いが、振り返ってみれば大切な時間だったと分かる。「振り返ってみれば」というのが厄介だ。たいてい、後になってこういうのは気付くものだ。只中にいると自分の感情や一般論が先行してなかなか気付くことができない。しかし人の助けが必要になるときはある。そういうときは無理せず人に頼ったり、出来るといいんですけどね〜。
ゲスト:ジェイソン・ルーヴ
「物事をあるがまま受け入れると、希望は不要だ
自分がいる場所もまあまあと思えるから。」
さらに
「希望は苦しみの原因」
「希望を捨てろ」
「絶望に身を任せればいい」
この考え方には目からウロコだった。
希望は輝かしく、生きる上での活力になり得るかもしれない。しかし、いつまで経っても状況は良くならず、持っている希望(幻想)と現実の自分のあまりの落差にただ苦しみ、劣等感を感じ、どんどん負の感情に蝕まれていく。インターネットの世界では、希望が溢れ、意識はせずともどうしても良い生活をしている人や自分より努力している人に対しての羨ましさ、逆に、妬ましさや嫉妬心が生まれ、精神を病んでゆく。他者だけではなく、自分自身の過去を反芻し「あの頃は…」と現実逃避する。(コレ全部実体験を並べてます)
それより、希望を捨て、現状をある程度受け入れ、絶望に身を任せる。希望を持っていると、自分の至らぬ点などに目がいくが、落ちるところまで一旦落ちてしまえば、「こんな状況だけど、まぁなるように任せるしかないか。」と考えられるとずいぶん楽だ。今が苦しくても、少しできることが増えてきたら「あぁ、今日はあれができて大したもんだったな」と思えるし、本当にダメな時でも「もう休むしかない。自分の苦しみは自分しか理解できないのだし、誰に指図される筋合いもない。蒸しパン食いながら寝よ」ってな感じで比較的楽観的に考えることができる。
…なんか本筋から外れている気がしなくもないが、自身の状況と照らし合わせて納得がいった。
「オーガズムは"小さな死"。自己の放棄だ。
自己は存在しないが、重荷であり痛みの根源になる。
この自分を感じないのが究極のオーガズム。」
自己=重荷であり、痛みの根源
つまり死んでしまえば自己も消滅し苦しみからも開放される。
逆説的にいえば、生きていれば苦しみからは逃れることができない。(一時的な快楽で逃れることは可能であるが依存や退廃を引き起こし健康的でない)
その解決策として、希望(過去、未来)を捨て、絶望(現在ある苦しみ、運命的なもの)を受け入れ等身大の自分自身を生きることだ、と私は解釈する。
これに関連して、最近本でニーチェの哲学を読んだんだけど、その中に「超人」というものがある。
超人とは、
生の根源的な生命力を発揮し、力強く成長する主体的人間像
(出典:倫理用語集 山川出版社)
…まあなんのこっちゃという感じなんですが。その前にニーチェの哲学を語る上で欠かせないのが「ニヒリズム」思想。ニヒリズムとは、「伝統的な価値観や、権威を全て否定し、破壊しようとする思想」のこと。ラテン語で"無"を意味する"ニヒル"からとっている。この、要するに究極に言えば「人生は全て無駄」というような虚無的な思想があって、その人生に対しての悲観的な考えを受け止めた上で、規制の価値観を壊し、新しい価値を生む態度を「超人」という。
さらに「永久回帰」というニヒリズム的な思想があり、つまり
世界は意味も目的もなく、永遠に繰り返す円環運動であるというニーチェの思想
(出典:倫理用語集 山川出版社)
この永久回帰に対してもニーチェは、無意味な世界の繰り返しの運命に耐え、それを己のものとして愛し、充実させることが超人のあり方だとした。
上に書いたニーチェの思想は、ジェイソン・ルーヴ氏の「絶望に身を任せろ」という言葉と重なる。さらにこの回(第5話)は同じシーンがぐるぐる繰り返される構成で、これは永久回帰を表しているのかもしれない。(その循環からどう抜け出したのか忘れてしまったが…)
ゲスト:デヴィッド・ニックターン
「自分のことしか考えられない時、
君は自分1人しか寝られない小さな部屋にいる
自分の考えから離れたら
大きな部屋に引っ越せる
人を招き入れられる
君も、他の人も入れる広さだ。
それが"空間"だ。」
ゲスト:デニーン・フェンディグ
最終話は特に異質で、インタビュアーのダンカン・トラッセルの実の母親がゲスト。
母親の愛の深さを感じる。
◯舵を誤って途方にくれている人へ
クランシー「漕ぎ方も分からずカヌーで川を下り、
流木につかえて岸で立ち往生し蚊にまみれる
多くの人が今その状況にあって
まさにカヌーが舵を誤って岸に上がり
自分を責めて自己嫌悪になる
そしてこれは必要な試練だと考える
何から始めればいい? 彼らが真実に近づくために?」
デニーン(母)「1番簡単な方法は"現在"を生きることね。
つまり過去や未来は置いといて…
体内の感覚を研ぎ澄ます」
◯心がひらくと痛い?
クラ「痛いよ、毎回こんなに? 心が開くと痛い? 常に痛みを」
母「いつもじゃない。心が砕けて開いたらとても痛むの。
でも痛みも形を変えるわ。痛みに問いかけたら…
それが愛だと分かる。本物のね。」
◯死に直面する人にアドバイス
母「私が思うに苦しむのは…
川の流れに抵抗したときなのよ
流れは止まらないわ。その流れを避けて…
川岸で留まろうとすると苦しむことになる ますますね」
「川の流れに身を任せると気付けるわ
愛と呼ばれるものが 自分を助けてくれると
経験してみないと気付けない "慈悲"ね
私が思いつく答えは"現実"ね
現実には慈悲の性質がある」
アカン、泣きそう
◯痛みを伴う「変容」
クラ「愛のエネルギーは あまりに壮絶だ
それと戦うために人生や自我を形成する」
母「そうね、殺される 自我の死よ」
クラ「望ましくない!」
母「望ましいから痛むのよ 自我の死だもの
心が破れて 自我が死ぬの
でも自我の死は変容だと分かるはずよ
錬金術的な変容なの」
クラ「確かに肉体みたいな 重たいものは要らない」
母「あなたも、私もね。」
「現実には慈悲の性質がある」…これはほんとうにそう思う。そう信じている、といった方がいいか。
トゥルーディ・グッドマンが言っていた、「孤独を感じる時は仲間を探すことが大事」というのも、これに当てはまると思う。
差し伸べられる手は必ずあって、それに気付けるかどうか。
ある出来事がきっかけで、自分の中にあったものが壊れてしまって心が病んで、悲しい苦しい気持ちになってしまっても、この痛みは「変容」の過程で生まれる痛みであると気付けたら、なんとか耐え切れるかもしれない。そう思って日々暮らしている。
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結局この作品は通して2回見たのだが、観る時期、年齢によって響く言葉が変わってくると思う。"見る幻覚剤"と言われているが、鑑賞後、瞑想したあとのような穏やかさを感じた。作品を通して感じたのは、「一時的な快楽」を求めるよりも、この作品に一貫して見られる「仏教的な思想」を取り入れて生活に対する態度を変えてみたり楽な姿勢をとって「過去も未来も無い"現在"を生きる」ことに集中してみたりすることで、病める現代人への特効薬になり得るのではないだろうか。奇抜な映像とストーリーが先行しているが本質的なところはそこだと思う。デヴィッド・ニックターン氏も言っていたように「自分も他人も入れる広さの"空間"をもつ」精神的余裕を持ち続けたいものだ。ただこれは本当に、最終話の母親が登場する回は今後、何度でも見たいと思えるほど素晴らしい。
参考:濱井修 他『倫理用語集 第二版』山川出版社(2019)