【無題】

 

私がしてきたこと、これからすること

何年か経って、誰かの目に入ることはあるのだろうか。

気持ちを、揺らがす様な、何かを。

 

帰り道を無くした風景

夕焼けこやけ 逆さまに

下校時刻 鳴きだすチャイムと

だんだんと落っこちてゆく

帰り道を終わらせないって

泣いていいよ 今だけは

線路沿いに消えちゃった菜の

来年また咲いてなんて

 -僕の戦争/shinsei kamattechan

 

あふれた涙で 育てた赤い花

吐しゃ物 肥料に

血の赤滲んだような 食虫植物

置いてゆくわ

ああこれからこの部屋で 起こること全て

貴方の 幸も不幸も

充血した目のように 見つめ続ける

私のかわり

 

あふれた涙で 咲かせたヒステリア

いろいろ あったわ

いろいろ あったわよね覚えているわ

この

いろいろ あったわよね覚えているわ

この

 -ヒステリヤ/YAPOOS

 

 

 

 

 

 

〔何と云はれても〕

何と云はれても

私はひかる水玉

つめたい雫

すきとほった雨つぶを

枝いっぱいに見てた

若い山ぐみの木なのである

  ー宮沢賢治(詩ノート,1927.5.3)

 

 

 

 

 

 

息苦しい時代とピノキオピー それでも世界と戦い続ける

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10代の頃の私は、それはもう生き辛かった。

何度も過去を後悔しては、他の選択をした世界線を考えて死にたくなったり、現状から逃げたかったのだが逃げ方がわからず、ズルズル留まり続けて危険な状態にまで自分を追い込んだりしていた。

今は20代になって数年経つので考え方もその頃に比べたら柔軟になったのだが(正直、まだ生きづらさは感じる)。本当に10代の頃はキツかった。当時いろんな音楽や本に救われたが、ピノキオピー氏の楽曲にも触れていたら、と思う。この記事で扱う曲はわりと最近の曲が多いので10代の頃に聴くことはどのみち叶わなかったのだが…。今苦しい時期を過ごしている私より年下の子たちに薦めたいと思うアーティストの1人だ。

さて、一つ前の記事では「孤独な時代とピノキオピー」〈https://hibino-note.hatenablog.com/entry/2021/09/30/151810〉と題して、スマートフォンが普及しSNSが主なコミュニケーションツールとなった現代社会の“つながり”の脆さ、そんな情報社会の中で増大する不安について書いた。(なんでこんなに堅苦しい文章なんでしょうね。修行が必要です) 今回の「息苦しい時代とピノキオピー」では、息苦しさを感じている人々への「処方箋」となるような楽曲をまとめてみた。前回あげた楽曲は現代人を揶揄する様な歌詞が多かったが、今回は、日々生きていてうまくいかなかったり悩んだり息の詰まる様な思いを抱いている人々に優しく寄り添う様なものになっている。

 

 

ゆっくり変わっていく

『すろぉもぉしょん』/pinocchioP

10代 ドヤ顔で悟った人

20代 恥に気づいた人

30代 身の丈知った人

そのどれもが全部同じ人

近頃のコロナ禍で、精神を病んでしまって精神科に受診する人が増えていると聞く。それぞれ事情は違えど、パンデミックの影響を受けて人生の中で今が1番しんどい時期という人も少なくないだろう。コロナが流行しはじめて多くの人を襲う不安は「この状況がいつまで続くかわからない」ことではないか。「早く元の世界に戻らないかな」と願っても、コロナはいつまでも終息せず、元の暮らしに戻ることは無いだろう。今まで経験したことのない危機が、静かに横たわっている。もう元に戻れない。この先も…。

もうずっと、この苦しみの中で生きて行かなきゃならないのかも…。

これはうつ状態になると突き当たる「絶望」という症状だ。生きていても、希望が見い出せない。状況が良くなる見込みがない。でも、果たしてそうなのか。人生は、生きていても良い事がなく、絶望から逃れるためには「現実逃避」、もしくは「死」…いや、少し考え方を変えてみてほしい。

過ぎた時間と この瞬間と

残り時間が 深夜混ざって

思春期・青年期の精神病理学を専門とする斎藤環は著書『承認をめぐる病』で「若者の“変わらなさ”」について論じている。

*

“若い世代、とりわけ20代以下の患者を診察していて、しばしば悩まされる問題がある。それは自分の「変わらなさ」に対する確信である。”(p66)

“見てきた通り、現代の若者にとって重要な価値を帯びているのは『コミュニケーション』と『承認』である。それは多くの若者の幸福の要因であるとともに、それが得られない若者にとっては決定的な不幸すら刻印する。たかがコミュニケーションの問題が幸・不幸に直結してしまうのは、『現状が変わらない』という確信ゆえである。それゆえ若者の『うつ』もまた、『コミュニケーション』や『承認』をめぐって発生しやすくなる。職場で承認されなかった若者は、あっさり退職してひきこもり、うつ状態になってしまう。ここでも『たまたま生じた不適応』をきっかけに『自分はもともとそういう人間であり、それはこれからも変わらない』という思い込みが生じる。”(p77)

 出典: 斎藤環(2016)『承認をめぐる病』ちくま文庫

*

「変わらないことへの確信」。確かに、困難な現状を前にして「いずれ状況は変わるから大丈夫」とか「時間が解決してくれる」といった考え方はなかなか直ぐにはできない。ましてやコロナなんて未知のウイルスだ。この先どうなるかなんて誰にも分からない。コロナに関係なくとも、それぞれの人がそれぞれの事情で苦しみの只中にいて、「もうこの先良くならないんじゃないか」と、どうしても悲観的になってしまうだろう。私も10代の頃、過去の失敗をいつまでもいつまでも悔やみ、そのことでこの先もずっと苦しむんだと勝手に決めつけ、過去のことを思い何度死にたくなったことか。(今考えるとどうでもいいことばかりなんだけど)

しかし、そういう人生の「しんどい時期」はいつか終わりが来る。これは不治の病とか世界滅亡とか逃れられない不幸の場合は除いての話。うつの状態が続いていても、それが絶対治らない、苦しい状況がずーっと続く、等というのは、上に引用したように強い「思い込み」である場合が多く、事実、どこかで救いの手が差し伸べられている。きっかけがいたるところに転がっている。そういう今の状況を「変えてくれる」装置が、人生には用意されている。そう、強く信じて、自分なりに力を尽くしていれば、差し伸べられる手に気が付ければ、おのずと良い方向に向かっていくと、私は考える。

感傷 感傷に身をやつしても

へっくしょん へっくしょん

くしゃみは馬鹿っぽいな

ぐーすぴー ぐーすぴー

鼻づまりの笛を

合図に 夜が明けてく

過去を振り返った時に「あの頃は大変だったな」と笑える日がいつか来る。トライアンドエラーを繰り返し、経験を重ねるうち、(ここでいう"経験"とは仕事でなにか成し遂げた等といった大それたものでなくてもいい。日常の、ほんの些細なことでも積み重ねていけば経験となり得る)トラブルや困難にぶち当たった時の解決法が自然とわかるようになってくる。これは、本当にゆっくり、時間をかけて、理解していくことだ。歳を重ねると考え方も変わってくる。性格も、今とはだいぶ違うかもしれない。こう言っている私なんかまだ、人生の4分の1通過したくらいのペーペーなんであんま偉そうなことは言えないが(汗)。

すろぉもぉしょん

朝になって熱引いて

こんでぃしょん

快晴の青天井で

反省したり調子こいたり のんびりくたばっていく

すろぉもぉしょん

アイドルだって歳くって

賑わせて骨になって

生まれたときと最後のときが ゆっくりつながる 不思議

ゆっくり変わっていく」。即効性のある薬のようにすぐに良い方向に変化するのは難しいけど、日々悩んだり苦しんだり、人との関わりの中で喜びを感じたり、はたまた動けなくなって休んだり(ちなみに私は今ココ)、なんだかんだ様々な過程を経て、いつか笑えるその日まで、ただただ生きる。そのようにして人間は成長していくんだと、最近思う。

恥の多い生涯なんて 珍しいもんじゃないし

大丈夫だよ

 

 

孤独に世界と戦っている

『アルティメット・センパイ』/pinocchioP

曲名にもなっていて曲中でも繰り返し歌われる「アルティメットセンパイ」。彼/彼女は「完璧で立派な人物」というよりどちらかというと「不器用で変わった人物」といった印象を受ける。

アルティメットセンパイ アルティメットセンパイ

鳴かず飛ばずの毎日をもがいているセンパイ

アルティメットセンパイ 不安定な将来

狂っているのは一体 どっちだい?

また味方を蹴っちゃった 敵を庇っちゃった

自分を撃っちゃった 今日も大失敗

彼女は失敗を繰り返しているようだ。周りからも「一体何を考えてる?」と不可解な存在らしい。味方を蹴ってしまったり敵を庇ってしまったり意味不明な行動を繰り返している。でもこれ、すごいわかる。真逆の行動をとってしまうこと。その場の感情に任せてあらぬことを言ってしまい、のちに「なんであんなこと言ったんだろう…」と後悔する。わかる。わかりすぎる。『狂っているのは一体どっちだい?』という歌詞に、ピノキオピー氏の優しさを感じる。ピノキオピー氏はどんな時も一生懸命に生きている人々の味方だ。

アルティメットセンパイ アルティメットセンパイ

ちゃんとした人に怯えて貝になったセンパイ

アルティメットセンパイ 勇気出して言いたい

一方通行な恋をしている

あれ?伝わらなかった 口数減っちゃった

また間違えちゃった

案の定玉砕

アルティメットセンパイ でも泣かないよ絶対

不器用に夢をなぞってる アル・ティ・メット・セン・パイ

「正しさ」を前に立ち尽くしてしまう。不器用にしか生きられない自分に悲しくなり黙ってしまう。しかし彼女は転び続けてもなお、立ち上がる。何があっても前を向くほんとうの「強さ」を、彼女は持っている。

あぁ今日も不安だな 明日も不安だな

どうすりゃ正解か 今はわかんないや

アルティメットセンパイ でもやってやんよ絶対

ゆっくり地球は回っている

アル・ティ・メット・センパイ

彼女は今日もがむしゃらに生きている。日々の不安と、「今はわかんないや」という能天気さも持ちながら。不器用でもいい。遠回りでもいい。焦らず、でも確実に、自分の道を進むセンパイを私は尊敬する。闘いで受けた傷も、それが勲章となって、彼女をより強く、魅力的に見せていると思う。

ゆっくり地球は回っている。だから大丈夫。

 

 

幸せ自慢はダメ?不幸嘆いてもダメ?

『ノンブレス・オブリージュ』/pinocchioP

この曲は「百聞は一見にしかず」というか、まず聴いてみてほしい。

生きたいが死ねと言われ

死にたいが生きろと言われ

幸せ自慢はダメ? 不幸嘆いてもダメ?

図々しい言葉を避け 明るい未来のため

ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。19世紀のフランスで生まれた言葉で、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」を意味し、身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会に浸透する基本的な道徳観だという。つまり曲名の「ノンブレス・オブリージュ」は「息を止める」ことの強制、みたいな意味だろうか。

私はメディアが好きな方なので、最近のエンタメを見ていると「何も言えない時代になってきているな」と感じる。「多様性」を謳って様々な生き方が受け入れられる社会になってきたのかと思えば、少しでも時代にズレたことを言ってしまうと集中攻撃されてしまう。全ての人が平等に生きられる「明るい未来」のために、表現は規制され、どんどん言いたいことも言えなくなってしまう。『息が詰まる』ー

さんはい「この世には息も出来ない人がたくさんいるんですよ」

ここでも強い「同調圧力」を感じる。自分に言い聞かせる「まだ自分は恵まれている方だ」、または人から言われる「貴方は彼らよりマシなんだから」。しかし思うのだが、比較はなんの役にも立たない。むしろ状況をさらに悪化させる。

例えば、子供があることで悩んでいたとする。その子供の悩みは大人から見れば大したことない類のことである。「そんなこと大したことないよ。大丈夫。」しかしその子供にとっては大問題なのだ。なぜなら子供は人生経験が乏しく、自分の今まで生きてきた経験で比較・検討することしか出来ないからだ。同じことがこの社会を覆う「同調圧力」にも言える。苦痛は他人と比べることは出来ない。苦しんでいる人に自分の価値観を当てはめて大丈夫だと説得しても、苦しんでいる相手は「自分」ではなく「他人」なのだ。他人の気持ちはわからない。同時にわからせることも出来ない。なぜなら誰1人として同じ人生を歩んできていないのだから。比較するのはこの場合悪手である。(悪手…その場面で打つべきではないまずい手のこと。) 「正論」や「あらかじめ定められた価値基準」を押し付けてくる社会より、「それぞれには事情がある」ことを理解し容認する様な社会であれば、多くの人が日々感じている「息苦しさ」は多少マシになるのではないか。全ての人に手を差し伸べるべきだという訳ではない。1人の人間がそこに「居て」良いと存在を容認してくれる様な社会。過干渉でもなく突き放すでもなく。

僕らはコンプレックス コンプレックス 

コンプレックスを武器に争う

それぞれの都合と自由のため

息を止めることを強制する

それぞれの都合と自由のため』。近年「多様性」への理解・関心は広がりを見せている。しかしそれを「どう受け入れていくか」に関してまだ課題が残る。異質なものを排除する働きを強めるのではなく、差異をあるものとして受け入れ共生することが理想だ。これは難しい。私もまだ、この問題についてはどう考えていけば良いのか、考えてもわからなくなってしまう。この曲に関しては結論は出ないが、美しい曲とアニメーションは、日々の生活で感じる息苦しさを不思議と和らげてくれる。

*

先日、『猫を抱いて象と泳ぐ』という小川洋子さんの小説を読んだのだけれど、俳優の山崎努さんが解説を書いていて、その解説に書いてあった一節が上に書いてきた内容に関連するかなとちょっと思ったので、引用させていただく。

“自分から望んだわけでもないのに、ふと気がついたらそうなっていた。でも誰もじたばたしなかった。そうか、自分に与えられた場所はここか、と無言で納得して、そこに身を収めたんだ、と少年は賢く考える。「仕方ない事情」は受け入れたほうがいい。それも早めに。その後にお楽しみが待っているのだから、と仕方なくなってから七十数年過ごした僕はあらためて思う。

(略)

自由だ解放だと今日日世間は煽るけれど、そんな風潮に乗ってはいけない。本当の自由は仕方ない事情の内にあるのだから。”(p373)

 (小川洋子(2011)『猫を抱いて象と泳ぐ』文春文庫 より一部抜粋)

 

 

 

数年後にゆっくり理解して(まとめ)

『アンテナ』/pinocchioP

聞いてないよ 聞いてないよ 学校では教えてくれないよ

知らないよ 知らないよ 失敗繰り返して覚えていくよ

完璧な人生なんて存在しない。日々失敗を繰り返し、地道に経験を積み重ねていくしかない。液晶画面には若くして成功した者や才能ある者が映し出される。比べて自分は「何者でもない」ことに落ち込む。私もそうだ。同じくらいの年齢の人が素晴らしい作品を作り賞賛されているのを見ると冗談でなく真面目に死にたくなる。そんな時ピノキオピー氏の曲は優しく胸に沁みる。「そのままで良い」と。“何者”でもなくても、周りになんと言われようと、自分の道を進んでいる貴方は素敵だ、と。

そうアンテナを張って色んなものを見て聞いて

触ってつねって確かめて

そして各方面を好きになって 嫌になって

そうアンテナを張ってミスって 

説教くさい言葉にちょっとひいて

「うるさいくたばれ」悪態ついて 数年後にゆっくり理解して

*

そうアンテナを張って遊んで学んでわずかな喜び見つけて

つらかったこともいつか笑って 数年後に思い出して

今は辛いかもしれない。でも、苦しい時期がこの先一生続くわけではない。そう信じていれば、たとえ今動けなくても、救いがないとしても、きっかけが必ずどこかに転がっているはず。機が熟するまでのんびり待とう。

*

 

 

 

 

 

「じつはね、マーちゃん、私自身が自分のことを『落ちこぼれ』と認めてるんだわ。ずっと若い時から、この前の結婚の間も、重藤さんと一緒の今も…『落ちこぼれ』というのは、たまたまその言葉が問題にされているから使うので、これまで私の頭にこういう言葉があったのじゃないけど。私の感じ方でいえばね、自分はなんでもない人として生まれてきてそのように生きているし、あといくらかそのように生きて、やがてはなんでもない人として死んでゆくということなのよ。

(略)

私があくまで普通の頭で考えているのはね、自分をどんな些細なことにも特権化しないで、なんでもない人として生きているかぎり、余裕があるということだわ。その上で自分なりに力を尽くせばいいわけね。」(大江健三郎(1995)『静かな生活』講談社文芸文庫 より一部抜粋)

 

 

 

孤独な時代とピノキオピー インターネットで過剰に生み出される「偽の愛」の正体

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最近「ピノキオP(pinocchioP)」というボカロPを知った。

キャッチーな曲調とPVを見て、明るい感じの曲を作る人なんだなぁぐらいの感想しか最初は持たなかったのだが、聴いていくうちに「アレ?」とひっかかる歌詞が見つかる。よくよく聴いてみると、小気味良い韻やリズムの中に潜む皮肉の効いた歌詞、その裏に潜む優しさ。歌詞も驚くほど緻密に練られていて聴いていくうちにその世界観にハマっていった。今回はそんな曲のキャッチーさに反して陰のある、ピノキオピーさんの楽曲の魅力を掘り下げていきたい。

 

“風“

『神っぽいな』/pinocchioP

とぅ とぅる とぅ とぅ とぅる “風”

Gott ist tot (神は死んだ)
「神は死んだ」とは「キリスト教の説く真理や価値といったものが虚構であり、世界には何の価値も目的もないということ」を表した哲学者ニーチェの言葉である。しかしピノキオピー氏も概要欄で書いているが、この曲で歌われる「神」とはネット上ですごいものを表現する際に使われるスラングであると説明されている。神を崇拝するような厳かなものではなく、「天才!」「かっこいい!」みたいな賛辞と同列で、「神!」と表現するコメントはしばしば見受けられる。大層なことを言っているようだが、これは「なんも言ってないのと一緒」である。

*
ロングセラーになった菅野仁の『友だち幻想』の中で、“コミュニケーション阻害語”という言葉があった。
この阻害語とは、「チョー」や「カワイイ」や「ヤバイ」などといった、主に若者が頻繁に使う言葉のことで、今で言うとそれこそ「神」とか「わかりみ」とかがそれに当たるだろうか。相手とコミュニケーションを取る際にこういった言葉を連発してしまうことで「相手ときちんと向き合うことから自分を遠ざけ」、さらに「他者が帯びる異質性に最初から目を背けてしまう」(p135)という危険性があるという。

なに言ってんの? それ うざい なに言ってんの? それ
意味がよく分かんないし 眠っちゃうよ マジ
飽きっぽいんだ オーケー みんな 飽きっぽいんだ オーケー
踊れるやつちょうだい ちょうだい ちょうだい ビーム

特にこの歌詞の部分なんかはわかりやすい。
「うざい」「マジ」という言葉を使って異質なものから目を背けている。(動画1:50-このパートでMVのシスターが目を閉じているのは、相手の話を聞く耳を持っていないことが表現されているように思える)人との深い関わりや考え方の違いなど、面倒くさいものとは距離を置き、何も考えず「っぽい」ものを消費しラクしていたいという若者たちの主張…なのだろうか。

*
「場の空気」というのがある。私たちはなんとなくこの「場の空気」に合わせて発言などをしてしまいがちだ。ネットのコメント欄なんかもそう。いいね!をたくさん集めやすいフォーマットというものが少なからずあり、それに当て嵌めてコメントをしていたり、それに「共感」をした人々が賛同していたり。あらかじめ用意された「単語集」で喋るのは楽だし、一見、親しみが生まれやすいツールとも取れる。しかし、『友だち幻想』ではこうも言っている。

“…「チョー」や「カワイイ」を連発することによって物事に対する繊細で微妙な感受能力がいつの間にか奪われてしまう危険性を感じるからです。(略) そうした対象がそれぞれに持っている特徴の間の微妙な差異を感覚できない鈍さを、知らず知らずのうちに帯びてしまうことにつながると思うのです。”(P141)

 出典:菅野仁(2008)『友だち幻想 人と人の〈つながり〉を考える』ちくまプリマー新書

ラクにつながれる(気分になれる)言葉たちを頻繁に使うことで、物事を表面的なところだけしか見れなくなってしまい、他人の感情を推し測ったり、ものの良い悪いを選別するといった感受性がどんどん鈍ってしまう。

愛のネタバレ 「別れ」っぽいな
人生のネタバレ 「死ぬ」っぽいな
全て理解して患った
無邪気に踊っていたかった 人生

人生を生きていく上での様々な過程を無視し、「結末」のみ理解して(したつもりになって)満足してしまう。これには最近話題になった「ファスト〇〇」(映画など作品の重要な点だけ切りとって編集し、簡潔にまとめられた動画のこと)とも重なる。
「全てを理解」した気になって、複雑で面倒なものには耳を塞ぎ、ただ「気持ちいいっぽい」曲や言葉に乗って生きる現代人への皮肉がたっぷりである。

*

MVのイラストも、まさに「っぽい」。拳銃に見立てた手をこめかみに当てた「あざとい」ポーズ、自傷の跡。ゴツいリングと舌ピアス、片手にタバコ。現代風に言うと「治安が悪い」とゆー奴ですね。この社会に歯向かってる感じ、かっけえぇぇ。憧れちゃう!

あと、ちょっと筋からは逸れるが、「批判に見せかけ自戒の祈り」という歌詞にはドキッとした。特大ブーメランというやつですね。
先日も知人と某メンタリストのDaiGoさんの話をしていた時、最初は炎上した発言に対して批判的だったが、だんだん(アレ、これ自分のことでは…?)と思えてきて「あ〜…彼の気持ち、わかるわ。私にも同じような側面があるかもしれない。」という結論に達して考え込んでしまったものだ。

 

 

ぶっちゃけ大好き

『ラヴィット』/pinocchioP

けしからんっすか 背に腹っすか 欲望がダンスしてる

アレも危険だしコレも危険 その分アガるシステム

私もすっかりスマホ依存症になってしまって、液晶に映し出される様々な情報に、気持ちを持っていかれてしまうこともしばしばだ。この曲は、キャッチーで可愛いMVとは裏腹に、歌詞の内容は非常にシビアだ。のっけからこの調子である。『欲望がダンスしてる』『アガるシステム』など、TikTokYouTube、そして各種SNSなどといったインターネットの「流行り」や「広告」に振りまわされる人々を連想させる。 

ここで「ネット時代における“つながり”」というテーマを扱うにあたって、そもそもコミュニケーションとはなんなのかを考えたい。

“コミュニケーション【communication】
 … 社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。〔補説〕「コミュニケーション」は、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。”  ー参考: goo国語辞書

こうして意味を見てみると、コミュニケーションとはそもそも「人間が互いに、意思や感情を伝達し合う」ことである。街ゆく人々が皆スマホを持っている現代社会は、このコミュニケーションをスマホ、つまりインターネット上で行うことが(特に若者は)多いだろう。友人とメッセージを送り合うラインの他にもネット掲示板や、さらにインスタグラムをはじめとしたSNSでも、誰かが発信する情報や考えが常に視界に入るようになっている。ここで注目したいのが、ネット上で行われるコミュニケーションは「常に成立している」とは言いづらいことだ。「いいね」のやりとり、TLにいる人々の動向を逐一チェック、なんてことをしていても、文字制限がある言葉だけでは、もしくは加工された“エモい”画像だけでは、本当の相手を知り得ない。相手の表情を読んだり、相手との適切な距離感を時間をかけて理解したり、そういった「コミュニケーション」に必要なものがSNS上ではすっぽりと抜け落ちている。

一方通行の色恋 か弱いウサギになってしまった

一方通行の色恋』。つまり、本来の「人と人との心の通い合い」という意味の相互コミュニケーションではなく、常に「一方通行」なのだ。人との関わりの中で傷つくのを恐れる反面「誰かと一緒にいたい」と願い、少女は『か弱いウサギ』になってしまう。

ぶっちゃけ 大好き

顔がいいから大好き

有名だから大好き

みんな好きだから大好き

君の性格大好き

よく知らないけど大好き

どうぞ もっと痛くしていいよ

サビでは『大好き』と繰り返し歌うが、その言葉の先に相手はおらず、ただ壁打ちをしているばかりである。彼女の姿は痛々しく、さらに「どうぞ、もっと痛くしていいよ」と、まるで自傷のように同じことを繰り返す。

I love it

味のない キャロット美味しく頬張り

I love it

自分のいない 月を見上げ幸せそうなラヴィット

ここで、再び『友だち幻想』を引用するが、著者は現代における新たな共同性を「ネオ共同性」と名付け、その根拠にあるのは不安の相互性だと説いた。

“多くの情報や多様な社会的価値感の前で、お互い自分自身の思考、価値観を立てることはできず、不安が増大している。その結果、とにかく『群れる』ことでなんとかそうした不安から逃れよう、といった無意識的な行動が新たな同調圧力を生んでいるのではないかと考えられるのです。”(p56)

 出典:菅野仁(2008)『友だち幻想 人と人の〈つながり〉を考える』ちくまプリマー新書

「なんか違う」とは感じながらも、それでも「みんなといっしょ」の方が居心地が良いと感じてしまう。自分の本当の気持ちが隠され、多数派の意見に流されてしまう。美味しくもないキャロットをさも美味しいものであるかのように頬張る様は、側からみたら滑稽以外の何者でもない。でも独り(ぼっち)になるよりはマシと、か弱いウサギは幸せそうに微笑むのだ。しかし。

あなたを信じていいかな?

泣き腫らしたい目で 偽のに病む その度に

甲斐甲斐しく「生まれてきてよかった。」と

胸を張って言えないけど この思いを伝えるために

彼女は心の中で自分自身に問う。「一生か弱いウサギでいいの?」と。本当は、インターネットに溢れる偽の愛に気付いていて、誰かを信じること、歌詞にある「〇〇だから」のような表面的なものではなく、自分の本当の「好き」の気持ちを伝えたい。MVのラストのシーンで女の子がずっとつけていた「つけ耳」を外して微笑んでいることから、それまで大事にしていたもの(『価値の無い宝物』)と決別し、本当の「」、本当の「人とのつながり」を求めて生きていくのだろうということが暗示されている。

 

 

より空疎になっていく“つながり”(まとめ)

たくさんの人に囲まれていても、頻繁にスマホに通知が来ていても、「独り」であると感じてしまう現代人。ピノキオピー氏の楽曲を通して、そんな現代の“つながり”について考えてみた。コミュニケーションツールは近年発展し続けているが、一方で人々の間にはどんどん心の距離ができてしまっている様に思えてならない。「コミュニケーション阻害語」や「不安のメカニズム」を知ることでネットとの付き合い方を今一度見直す必要があるのかもしれない。それにしてもピノキオピー氏の歌詞は凄い。ボキャブラリーの豊富さと、世界を捉える眼差しの鋭さ。伝えようとしてくれているメッセージがぐっ、と入ってくる。言葉と、そして現実と真剣に向き合っているからこそ書ける詞なんだろう。『ラヴィット』は表面的にはキャッチーで可愛らしい曲だから、かなり衝撃だった。

ピノキオピー氏についての記事を書くにあたって、「孤独な時代とピノキオピー」と「息苦しい時代とピノキオピー」の二部構成(?)にした。前編/後編的な分け方ではないので続きというわけじゃないんだけど、この記事を読んでくださった方は、少しダークな内容になっている「息苦しい時代とピノキオピー」〈https://hibino-note.hatenablog.com/entry/2021/09/30/154049〉もあわせて読んでくだされば幸いです。

 

 

 

 

(今更)ハマっているYouTuber

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こんにちは。

もうコロナが怖くて怖くて、最近何もできていません。また自粛期間。

まぁ私は休めるのでいいですけど、お仕事されてる方はさぞ大変だろうなぁ…と。

 

*

 

そんな自粛生活の中、私はとあるYouTuberにハマっていた。

バーバパパ」(以下、パパ氏とする)というユーザー名でEDMなどの楽曲をあげている、正体不明のYouTuber。『ウ"ィ"エ"』という楽曲がヒットし話題になったのでご存知の方も多いと思う。最近では、大物YouTuberのヒカキン氏がカヴァーしてそれも話題になっていた。

私が最初に見た動画も、この『ウ"ィ"エ"』なのだが、その時は「はぁー、よくわかんないなぁ」と思っただけで、そんなに気にも留めず、すぐ興味も無くなった。しかし、今ではアップされている動画を毎日見るまでになった。なぜか。

 

現時点で語れるパパ氏の作品の魅力というのは、ざっくり言うと

  • 意味のわからなさ≒意味のなさ
  • 独特な言葉選びカオスの中で唐突に刺さる歌詞

 

と、いったところだろうか。この記事では、私が特に刺さった動画をもとに、パパ氏の魅力を解き明かしていきたい。

 

これはなんなのだろう

パパ氏の作品を見たときの感想はさまざまあるだろうが、圧倒的に多いのがこれだろう。「今、私は何を見ているのだ?」

私が氏にハマるきっかけになったのは『にょーり君』と題されたアニメーションだ。

これを初めて視聴した時、決して心穏やかではなく、むしろ乱される気分だった。

画面にいるのは、学校の中庭で掃除をしている2人の青年。話し方はぎこちなく、会話もスムーズに進まない。どこに向かって話が進んでいるのかもわからない。ただ、コミュニケーションが下手そうな2人の会話を見て、共感性羞恥を否応なく刺激されるのであった。

しかし、なんだか気になる。なんなのだろう。この感情。もう一度見てみた。二度目は、主人公のにょーり君が自分の力の強さ故に人を傷つけてしまう、という声を詰まらせながら涙を滲ませながらの告白に、少し気落ちが動いた。にょーり君…。気持ち悪いだけだと思っていたが、なんだか気になる、放って置けない存在、くらいになっていた。

その後、続きがすでにアップロードされていることに気付いて2話も視聴。主要なキャラクター・にょーり君、デビス君に続いて九重八木君という新キャラが登場。彼は、これまでのエピソードにはいなかった「ツッコミ」的ポジションであり、彼が加わることによって1話でアニメ全体に感じていた違和感、気持ち悪さというものが「ボケ」であり、「ツッコミ不在」の異常な世界だったんだ、ということに気付かされた。そのため、2話は1話に比べて非常に見やすく、面白い内容だった。

「にょーり君」にハマった私は、パパ氏の過去の動画も漁り始めた。

 

段ボール捨てる日がまだいつなのかよく分からない

パパ氏の動画には、たびたび登場するオリジナルのキャラクターが出てくる。白髪の青年、鯵の頭をしたアジョット、水着を着た歌のお姉さんetc...そんなキャラクターが登場する動画の中で、繰り返し歌われているあるメッセージがある。それは、

「段ボールを捨てる日が いつなのか分からない」

非常になんというか、日常的なというか、まぁ、言ってしまえばしょーもないものなのだ。

ある時はコンビニ前で時間を潰してる白髪の青年が。ある時は舞台の上で踊る歌のお姉さんが。それまでの流れとか(まぁ流れとかないんだけどこの人の作品に)一切関係なく、そんな独り言のような文言を、しかもよりによってEDMに乗せて。

しかし私は心奪われてしまった。「分かる! 捨てる日いつなのか分からないゴミってあるよねぇ」と、謎の共鳴をしてしまった。ここで言っておきたいのだが、それ以外ほぼ何を言いたいのかは分からない。アニメーションも脈絡のない(ように見える)ものばかり、曲も意味不明。圧倒的カオスの中に、いきなり「段ボール捨てる日がいつなのか分からない」。こんなの好きになってしまう。あと作中に出てくるセニョール伯爵大臣の御神というキャラが(誰)、曲のイントロ部分で「アカン。もう何度やってもアカンわ。」「モジュールのエラーがなんとか」みたいにゴニョゴニョ言ってる箇所があるんだけどこれは多分、3D映像や曲を作る(つまり作品を作る)上でパパ氏に起こったトラブルをもうそのまま、独り言をあえてそのまま曲にのせて伝えてきてるのがちょっと笑える。(実際どうかは分かんないけどね)

 

『インク切れ』

にょーり君2話の劇中歌である『インク切れ』。

これは、九重八木君がホワイトボードに文字を書こうとしたらペンのインクが無かった、というシーンで使われる予定だったらしい曲。本編とは別の動画として(単純にMVとして)あがっている。

「インク切れ」という日常でよくある些細な出来事からこんな曲を作ってしまうなんて、ありきたりな表現になってしまうが天才だなと思った。インク切れしていたことも、する可能性があることも、分かってはいたのにそのままにしてしまっていて、結果今手元には一本もインクの出るペンがない。

間違ってること気づくのはいつだって

暗く深く広い迷路のよう

迷ってたんじゃ出口もきっと見つかんない

探し続け時を忘れ 今何時? 今何時?

そんなこんなで1人 あぁいっそ投げ出したいよ

もう全部

インクの話から、このサビである。えっ?人生哲学の話? 

 

そしてにょーり君のエンディング。これも一体なんなんだ。

気怠い朝方に 急ぎ足で駅の中

どこでもいるのだろう 俯いたまま

話さない 誘わない 気にしない 望まない

頼らない 当てにしない 騒がない

 

いつかしたあの約束を もう

覚えてはいないかな

全部忘れてしまえばいい 振り出しにして!

 

消える 消える 消える 何も

言わずに重ねたもの全て

捨てる 捨てる 捨てる 覚悟はとうにできてた

これもなかなか衝撃的だった。あんな奇妙なアニメが終わった途端、「気怠い朝方に〜」…って入ってこないわ!!

よくよく歌詞を聞いてみたら、とっても哀しい曲。

いろいろ考察の余地はありそうだが、あえてあまり深入りはせずに。

 

*

 

まとめみたいな奴

パパ氏の作品は一見、支離滅裂で受け入れ辛さはあるものの、理解できる人には響くメッセージがそこかしこに散りばめられているのだと感じた。

この"理解できる"は、完全な理解、ではなくて、「こういう気持ち、なんとなく分かる」「わかんないけど、落ち着く。」くらいフワフワしたものだろう。

だから、ある動画の意味不明さに「落ち着く」という人がいたなら、それはやはり意味以上の何かをその人に伝えることができているのだと私は思う。コメントでも見た気がするけど、「意味のあるものに疲れていたので助かります」みたいな感想もあった。パパ氏の作品の魅力である意味のわからなさ、無意味さは、つまりそういうことだ。ここにあげた動画以外で、これは意味を含んでそうという作品も実は結構ある。でも考えてみてもその動画を作った真意は計りかねる。私はただ単純に、視覚と聴覚でパパ氏の世界観を堪能できれば、にょーり君たちの日々を笑って見て居られれば、それで十分満たされる。これからもこっそり、動画投稿を楽しみに待っている。

 

 

 

私の持病と頻繁にみる夢の話

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今日夢を見た。

夢なのに感覚とか感情とかかなりリアルで、夢から覚めても気持ち悪くて、しばらく怖いという感情が消えなかった。

その夢というのは、私は学校(のような施設)にいて、授業に出ていた。授業内容は映画を見るというもので、学校にはないような巨大なホールでたくさんの生徒が座席に座ってスクリーンに映された映画を見ていた。その座席というのが、正面に向かって、かなり急な斜面に、階段のように下る座席が正面のステージを扇型に囲っているような作りだった。私は後ろの方の席(つまりかなり高い位置)に座っていた。前回この授業に参加したときは大体2時間ほどで授業が終わったのだが、今回は2時間経ってもまだまだ終わる気配がなかった。密室に人が密集している空間が苦手な私はだんだん気分が悪くなってきた。ついに耐えきれなくなって急斜面で1番高い位置にある座席から1番低い位置にある正面のステージに向かって(前にある座席を全部通り越して)ひとおもいに飛び降りた。身体に衝撃が走る。痛みを感じる。どう落ちたのか謎だが腹部を強く打ったらしい。血は出なかったものの、胃の辺りの位置に茶色いあざが残った。高いところから落ち、したたかに身体を床に打ちつけたため、しばらくずっと気分が悪く、常に吐き気と戦っている感じだった。周りの人たちは優しく接してくれたが、私は外からは分からない、内臓が破裂していたりとかするんじゃないかととても不安だった。早く医者に行かないと、私は死ぬのではないか?という考えが頭の中をぐるぐる回り、恐怖に押し潰されそうだった。…そこで目が覚めた。

 

今回の夢はかなりヘビーだったが、よく似たような内容というか、シチュエーションの夢を見るのだ。

私は、いわば軽度のパニック障害を持っているので電車などの乗り物や密室などが実際苦手だ。そして、夢の中でもそうなのだ。

夢の中でくらい安心して生活させてよ…と思うが、本当に、結構頻繁に見る。電車に乗るんだけど、間違えて急行かなんかに乗ってしまって(普段各駅しか乗れない)、全く止まる気配がなく走り続ける電車の中で、(勘弁してくれ…死んでしまう…)と思いながらだんだん吐き気が込み上げてきて地獄のようだ…というところで目が覚めたり。学校で授業を受けているのだけど、授業が終わる時間のことしか考えられず、密室で自分の我慢のキャパを超えそうになり(あぁ…どうやって教室出よう)とジッと考えていたり。

 

こう書いていて思ったんだけど、普段の生活の中で私は、リラックスしている時間、っていうのがあまりなく、外に出る時は常に緊張していて、その緊張、不安のあまり外で叫びたいような気持ちに駆られるような時がある。まだ理性が働くので実際にウオーとか叫んだりすることはないのだが、こうやって内側に無意識に溜めているものが結局夢にまで出てきてしまうのではないか?よくわからない理論だけど…。

 

夢の話ほど他人の話で興味ないものなんてないし、所詮夢、なんだけど、最近頻繁に上に書いたようなものとか、人にナイフでズタズタに刺されて殺されそうになる夢とか見ていて、流石に怖くなってブログに書いてしまった。人にはあんま話せない(この話されてなんて返しゃいいんだ)けど、結構メンタルやられるので思いの捌け口的な感じでブログを使わせていただいた。誰かに見られることより、ちょっと気持ちの整理をしたかった。ちなみに夢日記は付けていません。危ないと聞いたことがあるので。あと、一個だけ希望なのが、「飛び降りる」や、「殺されそうになる」などの夢は、夢占いを見てみると大体『吉夢』(縁起の良い夢のこと)らしいということ。これまでの自分を一新して新しいスタートを切れることを暗示している、みたいな。本当だったら喜ばしいことだけど、流石に怖すぎるのは現実にも支障をきたすので勘弁。

 

 

 

「頑張らなくて良い」と言うが、人生で頑張ったことが無い

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このごろ不調で、YouTubeに上がってる怖い話詰め合わせみたいなのを聴いて過ごしている。あんなに好きだったラジオも、話が入ってこず最後まで聴けないことが多くなった。要するに集中力が欠落していて、自分が何をしたいかもよく分からず、読んでいない本が増えていく一方…このブログ自体も、だいぶ文法がおかしく読みづらいところがあると思う。あらかじめご了承ください。

 

*

 

『ミッドナイト・ゴスペル』というNetflix限定アニメ作品がある。"見る幻覚剤"とも呼ばれたこのアニメは一時期サブカルチャー好きの間で話題になった(らしい)。私はこのアニメをあるYouTuberの人が紹介していたのをきっかけに興味を持ち、このアニメのために一ヶ月だけネトフリに加入した。

 

[作品のあらすじ]

 本作は、『アドベンチャー・タイム』で知られるペンデルトン・ウォードによる1話約30分、全8話からなるアニメーションシリーズだ。ウォードがダンカン・トラッセというコメディアンが配信しているインタビュー形式のポッドキャスト『Duncan Trussell Family Hour』に触発され、そのインタビューをアニメーションにすることを思いつき実現した。基本的に1話完結で、トラッセル自身が主人公のクランシーを演じている。

 主人公のクランシーはスペースキャスター(ポッドキャスターの宇宙版)で、様々な平行世界へシミュレーターを通して訪れ、そこで出会った人々にインタビューするという筋書きだ。そのインタビュー内容は、過去に配信されたトラッセルのポッドキャストから取られている。

 その平行世界は様々な理由で滅亡の危機に瀕しているという設定だ。ゾンビが大量発生していたり、地表が水に沈んでいたりと様々なシチュエーションを幻惑的なアニメーションで描き、そこでクランシーがとんでもない目に遭いながらユーモア混じりにインタビューを続けてゆく。インタビューのテーマはゲストに応じて様々で、薬物依存症のスペシャリスト作家、瞑想のプロ冤罪で死刑判決を受けた人物から、ラッセル本人の母まで多彩な顔ぶれだ。

 ペンデルトン・ウォードは、ダンカン・トラッセルのポッドキャストを高く評価しており、2013年ごろから聴いていたという。ウォード曰くとラッセルは「瞑想について2時間通して面白おかしく語れる」センスを持っているそうで、そんな彼のトークにアニメーションをつけたら面白くなるのではないかと思ったそうだ。

出典:「『ミッドナイト・ゴスペル』なぜ話題に?新感覚アニメーションが可能にした、壮大なテーマの表現」杉本穂高(https://realsound.jp/movie/2020/05/post-557468.html)

 

作品に関しては調べればもっと文才のある人がいくらでも解説を書いているので、ここでは自分のための備忘録というか、気持ちの整理的な意味で印象的だった言葉など引用し自分なりの解釈を書いていこうと思う。

※注意! この作品を見たのが去年で、手帳にあるメモを参考に(足りないところはネットで調べて)しているので、実際のストーリーと多少異なる部分があるかと思います。そこはご了承願います。

 

*

 

ゲスト:ダミアン・エコールズ

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「みんな人生 文句を言ってばっかりだ

そこに"気"を費やしてる

本来は後退より前進に力を注ぐべきだろ?

 

ウソを吐けとは言わない、

具合が悪い時に元気だと言う必要はないが、

"よくなってる"といえば良い」

 

 

ゲスト:トゥルーディ・グッドマン

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「自分にとって大切なものにエネルギーを集中させるの

つまり孤独な時には、仲間を探すのが大事ね」

 

メモには、セリフ全文を引用できていなかったのだけど、「自分の直感に耳を澄ます」「直感に反すると失敗する」などがあった。

「仲間を探すのが大事」、これは今から友達を探しましょうというハードなものではなく、もっと広く「人と関わりを持つ」ことの大事さを言っていると私なりに解釈した。

私はここ1、2年孤独を感じながら過ごした。詳しくは書けないが、独りでいる時間が圧倒的に長く、人と話すこともほとんど無い生活を過ごしていたら動けなくなった。「このままではいけない」と思い、無理して身体を起こし、這いつくばるように人のいる場所に向かった。

不思議なもので、直接関わらなくとも人が喋っている声というのは落ち着くものだ。部屋の中でほとんど「死人」と変わらぬ生活をしていたが、人のいる場所に顔を出し、一応の「人間らしさ」のようなものは取り戻せた気がした。

私は現在、相談に乗ってもらったり話を聞いてもらったりしている人がいる(家族や友人ではなく)。 2ちゃんのスレッドで、「自分以外のことを考える時間を増やしつつ自分を認識してくれる誰かを作れ、親以外で」という書き込みがあって、実感として物凄い理解できた。親に相談するのももちろんいいが、例えば心を病んでいるのだとすればその専門の人に話を聞いてもらうだとか、悩みがあったら専門の窓口に相談したり、インターネットを利用するのも私はありだと思う。実際、去年一年間はインターネットに助けられた。自分はとにかく好きになったものを語りたい厄介なタイプなので、この誰にも吐き出せないものをブログに書いて昇華していた。ブログに反応が来ると嬉しいし、孤独も和らいだように思う。(この場合反応が来ることも効能だが、「ブログを書き抜く」というかなり骨の折れる作業を成し遂げることが出来た、という達成感が大きな効能である)

 

孤独と向き合ったり、人と関わりを持つ(自ら)ことはハードルが高いが、振り返ってみれば大切な時間だったと分かる。「振り返ってみれば」というのが厄介だ。たいてい、後になってこういうのは気付くものだ。只中にいると自分の感情や一般論が先行してなかなか気付くことができない。しかし人の助けが必要になるときはある。そういうときは無理せず人に頼ったり、出来るといいんですけどね〜。

 

 

ゲスト:ジェイソン・ルーヴ

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「物事をあるがまま受け入れると、希望は不要だ

自分がいる場所もまあまあと思えるから。」

さらに

希望は苦しみの原因

希望を捨てろ

絶望に身を任せればいい

この考え方には目からウロコだった。

 

希望は輝かしく、生きる上での活力になり得るかもしれない。しかし、いつまで経っても状況は良くならず、持っている希望(幻想)と現実の自分のあまりの落差にただ苦しみ、劣等感を感じ、どんどん負の感情に蝕まれていく。インターネットの世界では、希望が溢れ、意識はせずともどうしても良い生活をしている人や自分より努力している人に対しての羨ましさ、逆に、妬ましさや嫉妬心が生まれ、精神を病んでゆく。他者だけではなく、自分自身の過去を反芻し「あの頃は…」と現実逃避する。(コレ全部実体験を並べてます)

それより、希望を捨て、現状をある程度受け入れ、絶望に身を任せる。希望を持っていると、自分の至らぬ点などに目がいくが、落ちるところまで一旦落ちてしまえば、「こんな状況だけど、まぁなるように任せるしかないか。」と考えられるとずいぶん楽だ。今が苦しくても、少しできることが増えてきたら「あぁ、今日はあれができて大したもんだったな」と思えるし、本当にダメな時でも「もう休むしかない。自分の苦しみは自分しか理解できないのだし、誰に指図される筋合いもない。蒸しパン食いながら寝よ」ってな感じで比較的楽観的に考えることができる。

 

…なんか本筋から外れている気がしなくもないが、自身の状況と照らし合わせて納得がいった。

 

「オーガズムは"小さな死"。自己の放棄だ。

自己は存在しないが、重荷であり痛みの根源になる。

この自分を感じないのが究極のオーガズム。」

 

自己=重荷であり、痛みの根源

つまり死んでしまえば自己も消滅し苦しみからも開放される。

逆説的にいえば、生きていれば苦しみからは逃れることができない。(一時的な快楽で逃れることは可能であるが依存や退廃を引き起こし健康的でない)

その解決策として、希望(過去、未来)を捨て、絶望(現在ある苦しみ、運命的なもの)を受け入れ等身大の自分自身を生きることだ、と私は解釈する。

 

これに関連して、最近本でニーチェの哲学を読んだんだけど、その中に「超人」というものがある。

超人とは、

生の根源的な生命力を発揮し、力強く成長する主体的人間像

 (出典:倫理用語集 山川出版社)

…まあなんのこっちゃという感じなんですが。その前にニーチェの哲学を語る上で欠かせないのが「ニヒリズム」思想。ニヒリズムとは、「伝統的な価値観や、権威を全て否定し、破壊しようとする思想」のこと。ラテン語で"無"を意味する"ニヒル"からとっている。この、要するに究極に言えば「人生は全て無駄」というような虚無的な思想があって、その人生に対しての悲観的な考えを受け止めた上で、規制の価値観を壊し、新しい価値を生む態度を「超人」という。

さらに「永久回帰」というニヒリズム的な思想があり、つまり

世界は意味も目的もなく、永遠に繰り返す円環運動であるというニーチェの思想

 (出典:倫理用語集 山川出版社)

この永久回帰に対してもニーチェは、無意味な世界の繰り返しの運命に耐え、それを己のものとして愛し、充実させることが超人のあり方だとした。

上に書いたニーチェの思想は、ジェイソン・ルーヴ氏の「絶望に身を任せろ」という言葉と重なる。さらにこの回(第5話)は同じシーンがぐるぐる繰り返される構成で、これは永久回帰を表しているのかもしれない。(その循環からどう抜け出したのか忘れてしまったが…)

 

 

ゲスト:デヴィッド・ニックターン

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「自分のことしか考えられない時、

君は自分1人しか寝られない小さな部屋にいる

自分の考えから離れたら

大きな部屋に引っ越せる

 

人を招き入れられる

君も、他の人も入れる広さだ。

それが"空間"だ。」

 

 

ゲスト:デニーン・フェンディグ

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最終話は特に異質で、インタビュアーのダンカン・トラッセルの実の母親がゲスト。

母親の愛の深さを感じる。

 

◯舵を誤って途方にくれている人へ

クランシー「漕ぎ方も分からずカヌーで川を下り、

 流木につかえて岸で立ち往生し蚊にまみれる

 多くの人が今その状況にあって

 まさにカヌーが舵を誤って岸に上がり

 自分を責めて自己嫌悪になる

 そしてこれは必要な試練だと考える

 何から始めればいい? 彼らが真実に近づくために?」

デニーン(母)「1番簡単な方法は"現在"を生きることね。

 つまり過去や未来は置いといて…

 体内の感覚を研ぎ澄ます」

 

◯心がひらくと痛い?

クラ「痛いよ、毎回こんなに? 心が開くと痛い? 常に痛みを」

母「いつもじゃない。心が砕けて開いたらとても痛むの。

 でも痛みも形を変えるわ。痛みに問いかけたら…

 それが愛だと分かる。本物のね。」

 

◯死に直面する人にアドバイス

母「私が思うに苦しむのは…

 川の流れに抵抗したときなのよ

 流れは止まらないわ。その流れを避けて…

 川岸で留まろうとすると苦しむことになる ますますね」

「川の流れに身を任せると気付けるわ

 愛と呼ばれるものが 自分を助けてくれると

 経験してみないと気付けない "慈悲"ね

 私が思いつく答えは"現実"ね

 現実には慈悲の性質がある

 

アカン、泣きそう

 

◯痛みを伴う「変容」

クラ「愛のエネルギーは あまりに壮絶だ

 それと戦うために人生や自我を形成する」

母「そうね、殺される 自我の死よ」

クラ「望ましくない!」

母「望ましいから痛むのよ 自我の死だもの

 心が破れて 自我が死ぬ

 でも自我の死は変容だと分かるはずよ

 錬金術的な変容なの」

クラ「確かに肉体みたいな 重たいものは要らない」

母「あなたも、私もね。」

 

現実には慈悲の性質がある」…これはほんとうにそう思う。そう信じている、といった方がいいか。

トゥルーディ・グッドマンが言っていた、「孤独を感じる時は仲間を探すことが大事」というのも、これに当てはまると思う。

差し伸べられる手は必ずあって、それに気付けるかどうか。

ある出来事がきっかけで、自分の中にあったものが壊れてしまって心が病んで、悲しい苦しい気持ちになってしまっても、この痛みは「変容」の過程で生まれる痛みであると気付けたら、なんとか耐え切れるかもしれない。そう思って日々暮らしている。

 

*

 

結局この作品は通して2回見たのだが、観る時期、年齢によって響く言葉が変わってくると思う。"見る幻覚剤"と言われているが、鑑賞後、瞑想したあとのような穏やかさを感じた。作品を通して感じたのは、「一時的な快楽」を求めるよりも、この作品に一貫して見られる「仏教的な思想」を取り入れて生活に対する態度を変えてみたり楽な姿勢をとって「過去も未来も無い"現在"を生きる」ことに集中してみたりすることで、病める現代人への特効薬になり得るのではないだろうか。奇抜な映像とストーリーが先行しているが本質的なところはそこだと思う。デヴィッド・ニックターン氏も言っていたように「自分も他人も入れる広さの"空間"をもつ」精神的余裕を持ち続けたいものだ。ただこれは本当に、最終話の母親が登場する回は今後、何度でも見たいと思えるほど素晴らしい。

 

 

 

 

 

参考:濱井修 他『倫理用語集 第二版』山川出版社(2019)

 

 

 

 

「いのちは燃やしてくものだなんて 冗談だ ばかみたい」-旧BiS解散ライブを見て感じた、哲学的ななにか

 

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[ BiSの解散ライブを観た ]

 

先日、BiSの解散ライブを観た。

素晴らしかった。WACKのグループは曲が良いのは大前提としてあるが。

客の顔がとても良かったのだ。

あんなに楽しそうな空間、なかなかお目にかかれない。過去の映像だが、「あぁ、自分もここに居たかった、ここにいて一緒に叫び、踊り、泣きたかった。」と悔しささえ感じるほどだった。

 

初代BiSは、ライブ映像など見てもお世辞でも「上手い」と言えないパフォーマンス。歌も外しまくり、ダンスも下手。

しかしとても惹きつけるものがあった。それは強い生命力、愛、みたいなものだろうか。とにかくエネルギーが凄いのだ。

 

過激なパフォーマンスで一部では熱狂的なファンを獲得していたが、なかなか人気が伸びず、夢だった武道館公演を果たせないまま解散してしまった。

どれだけ血の滲むような努力をしても、どれだけ周りから蔑まれても、目標には手が届かなかった。

そんなグループの解散ライブ。派手な演出やパフォーマンスは控えめで、歌とダンスのみ。しかし客とメンバーの一体感は異常なほどで、圧倒されるものがあった。

 

 

 

[ primal. ]

 

彼女達の代表曲に『primal.』という曲がある。

このprimalには、

 

primal=最初の、原始の、根源的な

 

等の意味を持つ。この「根源的な」という意味のprimalはBiSというアイドルを表す言葉としてしっくりくる。

というのも、彼女達の楽曲は

 

●『食べる』

● 生と死、

● 生きること それに伴う苦しみ

● 孤独であること…etc.

 

このように、人間の表向きの姿ではなく、裏側のリアルな、ときにグロテスクな部分を歌詞にしている。

アイドルの楽曲として一般的に想像される"明るい未来"や"明けない夜はない"などのポジティブな歌詞は少なく、上に並べたような"苦しみ"や""のような言葉が並ぶ。

BiSというグループはその活動の中で、可愛く着飾った偶像的な他の「アイドル像」と一線を画し、人間の根源的にあるものを"そのまま"見せる、前衛的な「アイドル像」を見せた。

だから、アイドル界の嫌われ者だったにも関わらず彼女たちのファンは熱狂的で、異様な熱をもっていた。ファンと演者、共に燃え尽きようという「共倒れ」感を、ライブ映像を見て感じた。よく意味がわからないが、とにかくそう思ったのだ。

 

*

 

先にも書いたが、BiSの曲には"苦しい"や"不安だ"のような苦悩の歌詞が多い。

 

いっぱいいっぱい余裕ない

こぼれてくの全部

やるしか道はないけど

tell me tell me why tell me tell me why クルシイ

 

教えてくれ

どうすりゃ良いの?

イデアも枯れ

八方塞がり そうだ このままじゃ

99パー失敗だ

 

助けてくれ 

空回りして いつも1人

僕の言葉なんて所詮届かない

中途半端終わっちゃっていいの?

(nasty face)

 

意味ないこと

なんて言われたくない ズタボロでいい ひどく不安なんだ

(PPCC)

 

この記事で引用する歌詞は全て、彼女たちの手によって書かれたものだ。

葛藤の中で生まれる苦しみや不安をありのまま歌詞で表現している。

彼女たちはその活動の中でアイドルとして苦悩する日々を、現在進行形で見せたのだ。楽曲と、パフォーマンスを通して。

 

 

 

[ いのちは燃やしていくものだなんて 冗談だ ばかみたい ]

 

もう一度 問いかけるよ そこはどうなってるの?

命は燃やしていくものだなんて 冗談だ ばかみたい

(DiE)

 

BiSの代表曲の一つ、『DiE』の歌詞はこのようなフレーズから始まる。この詞は「根源的なもの」を、その身を削って突き詰めてきたメンバー、特に中心人物であるプー・ルイにこそ書けるものだろう。

 

命をかけて何かをしたところで、誰にも見向きもされない、何か現実に作用したという訳でもないとなれば、その努力はなんなのだろう。

BiSの場合は、解散後メンバーそれぞれ活躍している様だし、事務所自体がどんどん大きくなって、彼女たちの努力は決して無駄ではなかったと言える。

しかし、現実には、努力は必ず報われるということはなく、報われずに徒労に終わる場合もとても多い。

世間に溢れる歌や、テレビ・スマートフォンが映し出す「世界」というのは、サクセスストーリーを過剰に演出する。そういったものが、人々に劣等感を植え付け、焦りや不安を感じさせる装置になる。

 

本当は何かに向けて努力することも、さほど重要ではないのではないか。

一度しかない人生とはいえ、素晴らしいことをする必要は全くない。自分の信念に従って静かに生きている人を、誰も非難できない。

愚かだってかまわない。輝く明日を生きろ、なんて、バカみたい。命を燃やして走り続けたプー・ルイの歌詞が刺さる。

 

 

 

[ 孤独が運命さ ]

 

 

耐えた 我慢した 馬鹿なフリだってした

Every time my selfish

つまづく旅にほら僕らココロ折れる

 

というフレーズから始まる、BiSの解散前ラストシングル『FiNAL  DANCE』。

「耐えた 我慢した 馬鹿なフリだってした」という歌詞で、過激なパフォーマンスの裏側にある、素の人間としてのBiSが表現されている。

決して平坦では無かった道。サビはこう続く。

 

SO  VERY VERY  NICE

これ FiNAL  FiNAL  DANCE

孤独が運命さ

 

声を聞かせて 大きな声で

意味ないことを

 

GOING GOING GO  MY WAY

これFiNAL  FiNAL DANCE

思い出すのも

苦痛になるよ? まいっかもう終点だ

明日には忘れてる

(FiNAL DANCE)

 

解散前ラストの曲で高らかに「孤独が運命さ」と歌いきる。

このワンフレーズに大きな意味を感じる。

世界は、"孤独"で溢れている。

孤独はマイナスなイメージで、1人であることは良くない事だと、根強い村社会文化が残る日本ではされがちだ。

しかし、どんなに1人で寂しかろうと、集団の中で安心しようと、結局人間は"孤独"から逃れることは出来ない。

こんな残酷とも思える事実から目を背けず、向き合って、「孤独は運命だ」と歌い切ることに、私は救いを感じた。

そうだ。私たちは孤独であり、人生の大半のことには意味がない。

そんな究極のメッセージを彼女たちは笑顔で、客席に向かって、放っているのだ。

 

かつて『PPCC』で「意味ないこと なんて言われたくない」と歌っていた子達が、「声を聞かせて 大きな声で 意味ないことを」とオーディエンスに語りかけてるところなんか泣ける。

 

*

 

さて、『FiNAL DANCE』についてもう少し。

BiSがカバーしている、国民的ロックバンドTHE YELLOW MONKEYの『プライマル。』という曲があるのだが、この曲とBiSの曲の詞に類似点が多いのが興味深い。(『primal.』はこの曲を受けて作られたのか?)

 

『プライマル。』のラスサビの歌詞を引用すると

 

VERY GOOD だいぶイケそうだ

旅立ったら消せそうじゃん

今度はなにを歌おうか?

卒業おめでとう ブラブラブラ…

手を振った君がなんか大人になってしまうんだ

さようならきっと好きだった

ブラブラブラ…

(プライマル。/THE YELLOW MONKEY)

 

これはBiSの解散ライブで歌われた『FiNAL  DANCE』のことをそのまま歌っているように聞こえる。

 

「VERY GOOD だいぶイケそうだ」 →  SO VERY VERY NICE これ〜

「旅立ったら消せそうじゃん」 →  かけがえのない君と過ごした日々が

                make you free 永久に 消えてしまう

                /思い出すのも 苦痛になるよ? まいっかもう終点だ

                明日には忘れてる

「卒業おめでとう」

「さようならきっと好きだった」 →  解散ライブ

 

『プライマル。』の語り手は、過去の思い出は手放して「今度はなにを食べようか?」等、"これから先のこと" について考え始めている。

『FiNAL DANCE』に込められたメッセージも同じ事だろう。

過去に執着しない、清々しい別れの歌だ。

 

 

*

 

 

いろいろ書いてきたが、マジでライブ映像を見てもらわんンと伝わらないものがありすぎる。アマプラで見れます。(2021.03.13現在)

一期BiSが解散してしばらく経つが、彼女たちの書いた詞やパフォーマンスは今でも胸を打つ。

現在のBiSの楽曲にも旧BiSの楽曲と同じメロディーが使われていたりして、受け継がれているものがあるとも感じる。(まぁ、この辺りあまり興味はないんだけど)

正直WACK(BiSの所属事務所)のやり方に賛同出来ない部分は多くあるのだけど、やはり人の琴線に触れるものを生み出す才能を心底凄いと思うし、尊敬する。

そして実際、『FiNAL DANCE』や『DiE』などの名曲は 孤独な心を励まし、今を生きる力を与えてくれる音楽として、私の中で鳴り続けている。同じ思いを抱える人々にも、時代を超えて鳴り続けていれば、過酷な運命を強いられた彼女達にとっても、幸福な事なんだろうと思う。

 

 

プー・ルイ「人生って上手くいかないことばかりです。BiSをご覧下さい。そうだったでしょ?」

:BiS『STUPiG』インタビューby billboard Japan (http://www.billboard-japan.com/special/detail/817t) より引用